第45話
それからいくらも経たないうちに、木々の向こうから水音が聞こえてきた。川が近いのだろう。その川は、よほど流れが早いのだろうか、かなりの轟音だ。
王子は一度立ち止まって、川の方へと目を凝らした。休憩を取るには水場はもってこいだ。もしかしたら、トーマスがいるかもしれない。
しかし水の音は聞こえてくるのに、川の水は一切見えない。不審に思っていたが、やがて理解した。
ここは、谷になっているのだ。
谷底には水が流れている。水音の大きさからして、それほど大きな崖ではなさそうだが、その水量は多そうだ。
王子は多少なりとも落胆した。水が手に届かない位置を流れているのなら、トーマスがここで休んでいるという考えは、そもそも成り立たなくなるからだ。
(いない……かな)
その時だった。
突然がさっと、葉が大きな音を立てた。驚くことに、それは王子の頭上から聞こえてきた。
見上げる間も惜しんで、王子はその場から大きく後ろに跳んだ。さっきまで王子の頭があった場所に、大ぶりのククリナイフが落ちてきた。
「ぐ……っう」
呻いたのは、王子ではない。
ずっと探していたトーマスが目の前にいた。王子の追跡に気づいて、木の上で待ち伏せしていたらしい。昨晩の逃走は、相当に神経を削るものだったらしく、兵として城にいた頃の彼からは想像もつかないほどにやつれて見える。
冬にしては薄すぎる服は、海水と血でべっとりと濡れていた。水を吸って重くなった外套は、きっと海で捨てたのだろう。
トーマスが血に濡れたナイフを抱えて、目を血走らせてこちらを見ている。ナイフに滴る血は、トーマスの右腕から流れ出たものだ。
傷は深いらしく、今もトーマスの体からは血が失われ続けている。きっと長くは動けまい。それどころか、すぐにでも処置を施さなければ命に関わるだろう。
「いやあ……。まさか避けられてしまうとは。少々、甘く見すぎていたようですね」
あちこち傷を負って、立っているのもやったではないかと思えるような出立ちで、トーマスが言った。今でも王子に敬語を使うのは、王子をばかにしているからであろう。
王子は剣を抜き、いつでも戦えるように体勢を整えた。
「ようやく追いついたぞ、トーマス」
しかしトーマスは王子には目もくれずに、荒い息を吐きながら油断なく辺りを見回した。一通り見てから、ようやく視線を王子に戻す。
「お久しぶりですね、殿下。
まさかとは思いますが……お一人ですか?」
「悪いか」
王子は少々ムッとした様子で答えた。
それを見たトーマスが、呆気にとられたように口を開けた。
「悪いというか、愚かです」
トーマスは利き腕である右手から、左手へとナイフを持ち替えた。傷を負った右腕よりも、左腕を使う方がマシだと判断したらしい。
「あなたは愚かです。ご自身の力を過信している。
ダグラスさんを連れて来ればよかったのです。今のおれは、あの人には敵わないだろうから」
「うるさい。余計なお世話だ。
それより、靴は持っているのか」
王子の問いに対し、トーマスは意外にも素直に答えた。
「ええ」
「ならいい」
それを奪って、それで終いだ。そう言おうとして、ふと思い出して付け加える。
「それから、もう一つ」
「なんでしょうか」
「お前以外にも、密偵はいたのか」
「さあ、どうでしょう」
トーマスが笑う。無邪気なそれが、今は恐ろしい。
トーマスとは、それほど仲が良かったわけではない。だが王子という立場上、兵士の訓練に立ち会ったこともあるし、何度か話したこともある。
際立って優秀な点があった覚えはない。しかし、いつも笑顔で和やかなトーマスの表情が、兵士という殺伐とした職業の中では、とても眩しく、そして好ましく思えていた。
「信じていたのに」
王子の口から、つい言葉が漏れた。
言ってから、王子本人も驚いたような顔をした。
「驚きました。殿下から、それほど信頼していただけていたとは」
トーマスはおどけるような様子で、ならばついでに首でも取って来ればよかったという。もっともっと取り入って、ダグラスに代わる親衛隊となり、やがて王子の寝首をかくのだ。なんと楽な仕事だろうか、と。
「おれたちにとって信頼とは、最も利用しやすい感情の一つですので」
「お前はそうやって、笑いながら二人の兵を殺したのか」
「……殿下は、やはりまだまだ青いご様子で」
「なんだと?」
「いや、失言です。お忘れください」
王子は眉をひそめたが、トーマスがその先を続けることはなかった。代わりに王子の神経をさらに逆撫ですることを言う。
「ああ、でも。
もし本当に殿下に取り入るのでしたら、王子より先に消すべきはダグラスさんですね。あの人のことですから、そう簡単には殺させてはいただけないでしょうが」
王子の目の奥で、何かが弾けた。
なんと愚かしいことだろう。つい先ほどまで王子は、心のどこかでトーマスを諦めていなかったのだ。
「もういい」
王子の口から出た言葉は、普段の王子からは想像もつかないほどに冷たく刺さった。
「もう、たくさんだ。裏切り者め」
「そうですか。では」
王子に確かな殺意を向けられてさえ、トーマスは笑顔を崩さない。まるで世間話でもするように微笑を貼り付けたまま、血まみれのナイフを王子の胸元めがけて突き出す。
油断していたつもりはなかったが、そのナイフの凄まじさは、手負いの獣の恐ろしさを存分に思い出させられた。
(速い! 本当に手負いか!?)
さすがに、非合法の魔女狩り団体なんかとは、比べ物にならない。身をかわすことで手一杯だ。
そのまま二撃、三撃と打ち合う。木々が生い茂る山の中では、王子の長剣は不利になる。王子は打ち合いながらも少しずつ林を抜け、谷の方へと移動した。素直に誘導させてくれたのは、トーマスの余裕の表れだろうか。
トーマスは四撃目を打ち込もうとして、しかし唐突に後ろに下がった。攻めているのはトーマスの方なのに、すでに彼は肩で息をしている。動く度にぼたぼたと赤黒い血の塊が落ちた。
王子はその隙をみて、剣を振るった。首筋めがけて一直線に。
トーマスは滑らかな動きで王子の剣をいなして半歩下がると、王子の剣筋に沿うようにククリナイフを這わせて距離を詰めた。
(まずいっ)
距離を詰められては不利だ。王子は腹をくくってトーマスに向けて体当たりを食らわせる。
もし、トーマスの体調が万全であったなら、こんな奇襲は通用しなかったことだろう。しかしトーマスは王子の体当たりをまともに食らって、よろめいた。そのときだった。
王子の懐から二匹のねずみが飛び出した。
王子とトーマスが阿呆みたいに呆気にとられて、口をあんぐりと開けた。一瞬どちらの動きも止まる。
先に正気に戻ったのはトーマスの方だった。トーマスにたかって、カリカリと服をかじり始めたねずみを、うっとおしそうに押し退けると、未だ動かぬ王子に向けてナイフを突き立てた。
今度こそ避けられなかった。右の脇腹にナイフを食らう。防刃の鎖帷子を服の内側に着込んでいるのが幸いし、胴が真っ二つになることはなかったが、あまりの衝撃に息がつまる。
王子はそのままバランスを崩し、よろめいた。そしてよろめいた先、そこには地面がなかった。
「え」
いささか間の抜けた声が響くが、それは流れる川の音にかき消された。王子の手から剣が離れる。
ねずみが王子の後を追うようにして、飛んできた。噛みちぎったのだろうか、トーマスの服も一部、一緒に落ちてくる。
王子はとっさにトーマスの服でねずみたちを包むと、それを抱えた。この激流で溺れてしまったら、もう二度と、この子たちをエラのもとに返してやることはできない。
谷底に落ちながら、トーマスの表情が見えた。驚いて、とても焦っているように見える。
(なぜ? この勝負はトーマスの勝ちなのに)
それとも、靴だけでなく王子の命を奪うように、命令されているのだろうか。
剣を落としてしまった。王家の紋が入っている名剣を。ダグラスが見つけてしまったら、なんて言うだろう。早く拾わなくては。無論、ここで溺れ死なずに済めばの話だが。
先ほど命を救ってくれた鎖帷子が、今度は王子の命を奪うかもしれない。でもそれを脱いでいるだけの余裕はない。
王子は手足をキュッと縮めて、できる限り丸くなった。これほどの激流だから、きっと流木や小石が、殺傷能力さえ持つ速さで流れてくることだろう。
水面がどんどん近づいてくる。そしてとうとう、王子は水面に叩きつけられた。
背中から落ちてよかった。顔から落ちたら、恐怖で気絶してしまったかもしれない。それでも、出血したのではないかと思うほどの痛みが襲ってきた。
ものを考えられるのは、それまでだった。
それから先は真っ暗で苦しくて、それ以外のことは、何も。
なにも。
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