第二章 惨劇の始まり

惨劇の始まり(一)

「ユウ君!」


 名前を呼ぶ声と共に、いきなり肩を叩かれた。パンっとだいぶ小気味の良い音がした。

 驚いて振り向くと、目の前でコハルが嬉しそうに笑みを浮かべている。


「びっくりしたなあ、もう」

「ね、一緒に帰ろ」


 いつものお誘いに頷いて応えると、コハルは「えへへ」とはにかんだ。


「ねえユウ君、さっき先生と話してたよね。何かあったの?」


 答えるより前に、僕は右手でばさりとプリントの束を持ち上げた。


たちばなさん、今日も学校休みだったから。どっさり溜まった課題プリント、届けてこいって。ついでに様子も見て来いってさ」

「ああ、カズハちゃんね。最近また学校こなくなっちゃったよね。これで三日連続……。あれ、四日連続だっけ?」

「どっちでもいいよ。まったく面倒くさい……。ま、お隣だから別にいいけど」

「と言いながらカズハちゃんが心配なユウ君であったー」


 ナレーション口調でコハルが勝手に着色する。


「おい、茶化すなよ」

「だって本当のことでしょ。ユウ君、優しいもんね」

「なっ――」


 真正面からそんなことを言われて、ボッと顔が赤くなったのが自分でもわかった。瞬間湯沸かし器もかくや、である。

 そんな様子をコハルが見逃すはずがない。


「お、照れてる照れてるー」


 とか言いながら、「うりっうりっ」と肘で僕の肩らへんを小突いてきた。

 反撃のやいばなんてとっくに折られてしまっていた僕は「うるさい」と小さく吐き捨てて、そっぽを向くぐらいしかできなかった。そもそも言い合いになってコハルに勝てた試しがない。

 仕方がないのでさっさと下校の途に就くわけなのだけど、コハルはまだ「えへへ」とにやけながら下駄箱までぴったり後ろにくっついてきた。


「あ、優しいってそもそも優也ユウ君の名前にも書いてあるではないか。むむむ、これは世紀の大発見かもしれないぞ。急ぎ帰って学会に報告せねば。諸君、レポートの準備だー。今夜は徹夜だぞー」


 ……何と言うか、本当に楽しそうなもんだ。この元気はいったいどこから沸いてくるんだろう。カズハにも少し分けてあげられないのだろうか。


「ねえ、ユウ君。カズハちゃんのとこ、私も行っていい?」

「ん、ああ、もちろん。でも、いきなりどうしたのさ。別に僕一人で大丈夫だよ?」

「んー……、気になるから、かな」

「なんだよそれ」

「なんでもいいじゃん。そうと決まればレッツゴー!」


 そう言ってコハルはピンクの長靴に履き替えて、雨の中へスキップで飛び出していった。白い傘が開かれて、茶色いポニーテールが波打っている。膝丈の紺のスカートもひらりと舞って、僕は慌てて目をそらした。

 立ち止まってしまった僕を待ちきれないとばかりに、コハルは叫んだ。


「ほらー! ユウ君、何やってるのー!」







 ……そこで目が覚めた。

 カーテンから透けてくる灰色がかった光が、昨晩から点けっぱなしのスタンドの明かりを少しばかり和らげている。


 思わず夢の内容を反芻はんすうしようとしたけれど、その細部はすっかり朝のじめじめとした空気の中へ溶け出してしまった後だった。まだ頭がぼんやり重い。


 なんだか懐かしい光景だった気がする。コハルがいて、僕がいて……少なくとも首なしの少女は出てこなかった。それだけは良かったのかもしれない。……いや、もう一つ良かったことがあるか。


 あくびを噛み殺しつつ、熱いシャワーで目を覚ましに向かう。

 少しすっきりした頭でリビングに戻ると、カズハが朝食の準備をしてくれていた。

 瀬尾さんはいつも通り先に学校に向かったらしい。

 テレビのニュースではまた昨日の事件について取り上げていた。ただ、まだ犯人はわからないままで、特に捜査に進展はないようだった。そのままドル円相場とかよくわからない数字の話になって、それを聞き流しながらトーストにかぶりつく。

 実に平和に六月十七日は始まった。天気予報によれば今日も一日雨らしいけど、幸いにして世界の終わりなんてのはまだ来ていないらしい。







「おはよう、ユウ君!」


 玄関のドアを開けるとコハルが白い傘を広げて待っていた。水溜りの残る道で、その笑顔は雨なんか気にする様子もない。水面に浮かぶはすの花みたいだ。


「おはよう、コハル。今日も元気そうだね」

「うん、ユウ君は……あまり眠れなかったかな?」


 コハルは僕の顔を見るなりそんなことを言う。目にクマでもできてしまっただろうか。


「あ、カズハちゃんもおはよう!」


 後ろを振り返ると、カズハもちょうど出てきたところだった。カズハは鍵をかけながら、返事の代わりにこちらに一瞥いちべつをくれる。


「じゃ、行きますか」


 僕がそう言ったのを合図に、三人での登校が始まった。左隣にはコハル、後ろにカズハが付いてくる。僕ら三人のいつもの並びだった。晴れていれば自転車を使うのだけど、今日も相変わらずの雨なので徒歩になる。

 徒歩だと当然早めに出なくてはいけないのだけど、コハルは決まって早めに家の前で待ってくれていた。コハルも僕らと同じく小稲瀬の出で、やっぱりなるべく同郷の三人で一緒にいたいのかもしれない。

 そもそも近所で殺人事件が起きているのだ。朝とはいえ、一人にならないほうがいい。


「防犯カメラ?」


 コハルが疑問の声をあげたのは、事件の話でひとしきり盛り上がった後だった。もう何度目になるかわからない説明をコハルにすると、コハルは大げさに驚いたり、安堵のため息をついてみたいり、はたまた僕の身を心配してみたり。表情がころころ変わって面白い。


「うん、防犯カメラ。今朝カズハと話して、今日の帰りに防犯カメラを探してみようって話になったんだ。……な、カズハ」

「え、あ……うん」


 話をカズハに振ると、カズハは少しだけ驚いた表情を見せた。おずおずと様子をうかがいながら、朝食時の話をしてくれる。


「望月先生が殺されたのが一昨日の午後四時くらい。その時間はユウと私が一緒に下校していたはずなの。だからそれを記録していた防犯カメラがないかどうか探してみようって……。それがあればユウへの疑いは晴れるだろうから」


 カズハの話を聞きながら、前方に伸びる通学路を見渡した。

 緩やかに曲がる川沿いの道、白い柵が立ち並ぶ右手はコンクリートの護岸がなだらかに川に向かって下っている。いつもは十メートルくらいの川幅は最近の長雨で倍ぐらいに広がって、半分沈みかけた雑草がゆらゆらと揺れていた。左手は何の変哲もない住宅街で、所々更地や駐車場になっている。やがて先の方では線路の下を川と一緒にくぐるのだけど、遠くに見えたそこは照明すらなくて、朝だというのにかなり薄暗い様子だった。見渡しても車はおろか、人通りすら同じ高校の生徒を一人二人見つけるのがやっとという有様だ。

 こんなところにわざわざ防犯カメラなんて置いてあるものだろうか。目撃証言だってあまり期待はできないかもしれない。


「それはいい考えだね! 私も手伝うよ!」


 コハルは迷いなく協力を申し出た。隣で「まっかせーなさーい」とか言いながら、胸の真ん中を小さな握りこぶしでどんと叩いている。目が合うと、ついでとばかりにバチリと威勢のいいウインクが返ってきた。

 こんな調子じゃどこまで真剣なのかはすごく気になるけど、正直ありがたい。こういうのは人手が多いほど良いはずだ。


「ほんとに? ありがとう、助かるよ。じゃあ帰りは下駄箱集合にしようか」

「りょうかーい!」


 とんとん拍子で話が決まっていく。僕独りだったらきっと何もわからないまま右往左往で、不安に押しつぶされていたかもしれない。でも、実際はカズハがいて、コハルがいて、僕のために力を貸してくれる。それがとても心強かった。


 そのまま学校に着くまで、コハルとは昨日のドラマがどうだったとか他愛のない話を続けた。そういえば台風もくるらしい。昨日の天気予報でもそんなことを言っていたっけ。気を付けないと。

 後ろではカズハはまた考え事をしている様子で、視線をアスファルトに落としながら黙々と歩いていた。会話に加わるつもりもないようだったけど、それはそれでいつも通りだった。


 学校に着くと、コハルだけクラスが違うので下駄箱のところで二手に分かれる。「また昼休みにね」とコハルが手を振って、僕らとは反対方向へ行ってしまった。ある意味では僕にとっての学校で一番の憩いの時間が終わってしまったわけで、次は昼休みまで待たなくてはいけない。


「はあ……」


 自然とため息が漏れてしまう。


「おはよ、たちばなさん。今日も大変ね」


 カズハは他の生徒から声を掛けられて、コクリと小さく会釈を返していた。

 今のは誰だったっけ。カズハは僕と違って交流が広い。深い親交ってわけじゃないみたいだけど、浅く広くうまくやっている感じだ。口数は多い方じゃないのに、少し羨ましい。


「大変って……なんかあったの?」

「別に。ユウは気にしなくていい」


 反射的にジト目の不機嫌そうな表情が返ってきた。何か気に入らないところに触れてしまったのだろうか。思いもしない反応に、訳もわからず心が痛んだ。

 固まる僕を置いてカズハは一人で先を行ってしまって、慌ててその背中を追いかける。


 僕らは……少なくとも僕は、この時までまだかろうじて日常の中にいた。心のどこかではわかっていたはずなんだ。そんなものもうとっくに壊れかけてボロボロになってしまっているって。だけど、どうしてもそれは信じたくなくて、受け入れたくなくて、その幻想の中を僕はゆっくりと泳いでいたんだと思う。


 カズハが教室の戸をガラリと開けた。

 僕もそれに続いて「おはよう」って、軽く、何も考えずいつも通りに教室に入っていったんだ。

 待っていたのは息も詰まるような静寂だった。

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