7-2 黒に染まり切った砂漠

☆2☆


「どうしたの? びっくりした。急に動かなくなるんだもの」


 ラティークの隣にずっといたアイラの呆然とした呟きで、回想から立ち戻った。

 霧は真っ直ぐにラヴィアンから伸びており、視界を一分たりとも見せるものかという如く、船を包んで広がっていた。アイラが身震いをした。


「まるで生きているみたい。ほら、霧がもそりと動くの」


 トコトコと緑の虎がやって来た。「シハーヴ、蹴散らせよ」ラティークは丁度いいとばかりに命令を下したが、シハーヴは背中をぶわっと逆立てている。


(シハーヴが反応している……? 精霊の類いか)


「アイラ、シハーヴの様子がおかしい。あいつ、他の精霊に弱いんだ」


「本当。しっぽ膨らんでる。おいで、怖いなら、だっこしてあげる」


(なんだ、おまえ。精霊のくせに獣みたいにアイラに甘えて)ぽん、とアイラの腕に飛び込んだ緑の虎シハーヴの首根っこを掴み上げ、引き摺り出した。


 精霊すら、許せないなんて。胸が熱くなる。これが恋い焦がれると言う現象か。あまり良いものでは、ない。ラティークは胸元をそっと押さえた。指先が固いものに触れた。


(コイヌール。女神の手にあった宝玉が)


 漆黒の塊のように黒ずんでいた石が、ラティークの心に同調するように、突如として熱を持ち始めた。ラティークはさっとまた胸の奥に石を押し込めた。


「ねえ? 何か隠してない? 今、ちらっと見えたんだけど」


(シェザードに約束したんだ。「大切な妹に、傷はつけさせない。アイラは大層哀しんでいるから、憐れな宝玉を見せれば、また落ち込むだろうと」と。ここは誤魔化すか)


「――見えてしまったかな。……きみを大切に思う、僕の本心」


 顔を傾けて唇を重ねた。「もう、もう! もう!」とアイラは真っ赤になって、頬を叩いては、惚けた表情を繰り返す。どうやらキスの反芻に夢中らしい。


「アリザム、この霧はなんだ」スメラギと会話を交わしていたアリザムが首を振った。


「判りません。大層細かい粒ですが、一つ一つが生きているようです」


「水でも撒いてみっか」とスメラギが奥に引っ込み、樽を抱えて戻って来た。「せぇーの!」と水をブチ撒いた。


(おい、アイラにかける気か!)咄嗟で腕を伸ばした。冷たい海水が降り注ぐ。


「濡れなかったか、アイラ」アイラは慌てて袖でラティークの髪を拭き始めた。


「うん、大丈夫。それより……スメラギ! あんたみたいなヤツを考えナシって言うのよ! ラティークずぶ濡れにして! この腐れ海賊、守銭奴!」


 スメラギにアイラは躙り寄ると、喧々囂々の文句を言い始めた。


(「腐れ海賊!」の言葉はどうかと思うが、アイラはスメラギ相手だと、いきいきとするんだよな)ラティークの前髪から、雫が滴り落ちた。


(僕には、あんな風に強い物言いをしない。あそこまで強い感情を見た記憶はないな)


 笑顔すら、アイラは何通りも持つ。泣き笑いは雨上がりの竜胆のように瑞々しい。かと思えば、太陽の如くぱっと明るく笑うし、月のように穏やかな笑みで妖艶に誘う。大人しくニコニコしてタンポポのように揺れたりする。


 色々なアイラを見たい。なのに、まだラティークが知らないアイラがいた。


 ――ヂリヂリとした焼き魚の気分。心が焼ける。いや、妬ける。


「おい、シハーヴ。……アイラの髪飾りを奪って、僕へ持って来い」


 アイラの足元に丸まっていた緑の虎は(何考えてんだ)と不可思議そうにラティークを睨んだが、アイラの肩によじ登ると、頭にちょこんと手足を乗せた。


「なぁに? シハーヴ? あ! ちょっと頭に乗るの? え? 髪解けちゃうよ!」


 ぱらりといつもしっかりと縛り上げているアイラの黒髪が波打って肩に落ちた。

(どき)とラティークの胸が高鳴る。あの落ちた髪に指を差し込んで、ゆっくりと掬って口づけしたくなった。


「こら、待ちなさい!」髪飾りを咥えたシハーヴをアイラが追いかけて側まで来た。シハーヴは髪飾りをラティークの足元に置き、船首のほうへ走って消えた。


「全く! 悪戯ばっかり!」

「下ろしているところ、初めて見たよ。まるで印象が変わるな」

「そう?」とアイラは髪飾りを咥え、さかさかと髪を上げ始めた。「まだだ」と手を押さえた。はらり、と柔らかそうな黒髪がゆっくりと落ち始める。


「もう! ラティーク、変だよ。ねえ、そろそろ砂の船へ乗り換えなきゃ」


 相変わらず黒い霧は船を取り巻いている現況だった。


「んーだァ、こりゃァ!」スメラギの声だ。アイラはさかさかと髪を元通りに縛り上げ「どうしたの?」と甲板に駆けていった。



「確かに変だよ。ラティーク」


 子供の姿に戻ったシハーヴがラティークをからかった。ランプの蓋を開けた前で、「んなコトやってる場合かよってカンジ」と砂漠に眼を向けた。


 ラティークの手からランプが落ち、重々しい音を甲板に響かせる。船首でアイラもスメラギも、アリザムも、皆が息を呑んだ。



 金色だった砂漠の色は闇の色に染められていた。

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