そして、扉は閉まる ~沿線ライター小清水くんと些細な出来事シリーズ①~

Han Lu

 朝倉みさきは困っていた。

 始発駅で各駅停車に乗ったのが十五分ほど前のこと。みさきは七人がけのシートのいちばん端に座っていた。

 土曜日の午後二時頃にしては、車内はそこそこ混んでいた。座席は全て埋まり、立っている人もちらほらと見うけられた。

 ふたつ目の駅が過ぎたぐらいから、みさきの隣に座っている男が居眠りをはじめた。よほど疲れているのか、男は大きく舟をこぎはじめ、徐々にみさきの方に体をもたせかけてきた。

 さらにひと駅が過ぎた頃、男は完全にみさきの肩に上半身を預けていた。熟睡というよりも、まさに爆睡といった感じだ。

 こんなとき、みさきはなかなか強い態度に出られなかった。自分で、そんな自分が嫌だといつも思っていたけれど、そうそう簡単に変われるものでもない。いっそのこと、席を立とうかとも思ったけれど、今立ち上がると男はそのままシート脇の金属のパイプに頭をぶつけてしまいそうで、それもできなかった。だからみさきは、シートの隅で小さくなっていた。

 やがて大きな駅で人が乗ってきて車内がさらに混みはじめ、みさきの前にも人が立った。

「ちょっと」

 みさきの前に立った男性が、そういって彼女の隣の男の肩を揺さぶったのは、再び電車が動き出してすぐのことだった。

 みさきが見上げると、ベージュのステンカラーコートを着た若い男性がみさきに「大丈夫?」と声をかけた。

 みさきはうなずいて、隣の男をちらっと見た。驚いたことに、男は肩を揺さぶられてもまったく目覚める気配がなく、口を大きく開けたまま寝続けている。それが狸寝入りではないことは、隣に座っているみさきが一番よくわかっていた。

 ステンカラーコートの男性が、「困ったな」とつぶやき、少し強めに男の肩を揺さぶったけど、それでも男は起きない。

 そうこうするうち、電車は次の駅に停まり、何人かが降りていった。みさきのシートから扉を挟んで反対側の座席が空いた。

「あっちに行きましょう」

 ステンカラーコートの男性が、みさきに手を差し出した。みさきがその手を握ると、男性はそっと彼女を引っ張り上げた。

 みさきの心配したようなことは起こらなかった。隣の男はパイプに頭をぶつけることなく、斜めに体を傾けながら、なおも眠り続けていた。

「あの、どうぞ座ってください」と、空いた座席の前でみさきが遠慮していると、男性は「僕は次で降りますから」といって、扉の脇に立った。みさきは座席に座った。

 電車が次の駅で停まり、男性はみさきに会釈して、降りていった。みさきも慌てて立ち上がり、ぺこりとお辞儀をした。

 扉が閉まり、もう一度席についてからようやく、みさきは男性にちゃんとお礼をいっていないことに気が付いた。どうしてひと言「ありがとう」っていえなかったのだろう。自分の引っ込み思案な性格が恨めしかった。もしも、もう一度会うことがあったら必ずお礼をいおう。みさきは、そう心に誓った。

 その機会は意外と早く訪れた。

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