6-5 後ろにいたモノ

 リンさんが彰の前に回り込んだかと思えば、素早く彰の胸元を殴る……いや、胸元に手を入れた。そうとしか表現ができない。リンさんの腕の先端は、彰の体に吸い込まれるように消えていた。信じられないことだが、彰の体の中にリンさんの手が入っている。


 彰は驚きと、苦痛で顔をゆがめ、リンさんをにらみつける。「何で」と彰が小さくつぶやいた瞬間、リンさんは彰の体から手を引き抜いた。リンさんは手に何かを持っていた。形容しがたいそれは、子狐様が作り出した狐火ににているが、もっと儚く、小さかった。


 手を引き抜かれた瞬間に崩れ落ちた彰を抱き留めながら、リンさんは彰から引き抜いた何かを口に運ぶ。そのまま口に放り込んで飲みこむと「まず……」と一瞬だけ泣きそうな顔でつぶやいた。

 リンさんが食べるのは感情だといっていたクティさんの記憶がフラッシュバックする。


「おい、マーゴ。空間とけ」

 状況についていけていないマーゴさんに、クティさんは彰を抱き上げると冷たい口調で告げた。


「え?」

「聞こえてねえのか。早くしろ。ちんたらしてると食うぞ」


 本気の声音に、マーゴさんは慌ててパンっと手を合わせる。状況の変化に、事態を見ていなかった日下先輩と吉森少年が戸惑った顔をする。それに気づいていても私は説明することが出来ない。


 私だって何が起こったのか、理解が追いついていないのだから。


 空間が歪み、かすかな眩暈と浮遊感の後、私たちは元の世界へ戻ってきた。交差点を人がゆっくり通り過ぎ、立ち尽くす私たちに不思議そうな視線を向けてくる。車の音や人の声。いつも聞いている馴染んだ音が、ひどく遠い。


「さっきのは彰を連れて帰んなきゃいけねえから、大目に見てやる。クティ、もう二度と余計な真似しないようにしつけとけよ」


 リンさんはそこで言葉を区切ると、今までにない低い声でつげた。


「次は食う」

「は、はい!」


 リンさんは本気だった。クティさんは頭を下げ、ダラダラと冷や汗を流している。マーゴさんの顔も蒼白だ。直接視線を向けられたわけでもないのに身がすくみ、心臓が壊れそうなほど音を立てる。

 押しつぶされるような緊張感に、香奈が青ざめ、離れたところにいた日下先輩と吉森少年まで身をすくませる。


 関係ない通行人が、リンさんの怒気にあてられた距離をとった。私たちの周囲に不自然な空間が空き「何事?」「さあ?」という囁き声が聞こえる。


 リンさんはフンッと不機嫌そうに鼻を鳴らすと、ざわつく周囲も、私たちのことも関係ないとばかりに歩きだした。イラついた態度だというのに、抱きかかえる彰の扱いだけが丁寧なのが、やけにアンバランスに見えた。


「……お前、彰さんに感謝しろよ……。彰さん気絶してなかったら、頭から丸のみだぞ……」


 緊張が解けたのか、青い顔でズルズルとその場に崩れ落ちるマーゴさんに、クティさんは同じく青い顔で胸の辺りを抑えていった。

 マーゴさんは「うん……」と力なく答える。


「ど、どういう……こと……?」


 私の問いかけに、クティさんはギロリと私をにらみつけた。ビクリと身をすくませると、一瞬気まずげな顔をして、それからため息をつく。


「お前は何も知らねえから、分かんねえのも仕方ねえけど、世の中には触れちゃいけないものってのがある。マーゴも聞いとけ。これから彰さんに関わるなら、お前もだ、坂下香奈」


 クティさんの言葉に、震えていた香奈が恐る恐る近づいてきた。


「お前さっき、俺の能力だったら彰の事も分かるのかって思っただろ?」

 クティさんの言葉に私は頷く。意図しなかったがそれがきっかけだったのだとは、なんとなくわかる。


「結論だけいうとな。俺は彰さんの分岐はよめねえ」

 予想外の言葉に私と香奈は目を見開いた。


「俺が分岐を見えるのは俺より格下。リンさんとか、お前らがいつも世話になってる子狐様なんかは見えねえ。つまり、アイツ、佐藤彰は俺よりも格上だ」


 それは文字通り、彰が人間ではないということをあらわしていた。


「何で……」

「それは俺からは言えねえ。リンさんに今度こそ食われる」


 そういったクティさんは青ざめていて、冗談ではなく本気なのだと分かる。先ほどのリンさん見る限り、リンさんは次があったら容赦なくクティさんもマーゴさんも食べるだろう。同族だとか後輩だとか、そんな粗末な問題、彼には関係ない。


「じゃあ、さっき彰君は食べられたの?」


 香奈が青ざめながら両手を合わせて、クティさんに問いかける。言われて初めて、その事実に気づいた。それほど私も動揺していたということか。


「記憶消したんだろ。精神的ダメージを減らすために」

「リンさんが食べるのって感情じゃ……そんなことできるんですか?」

「リンさんは俺たちとは格が違う。感情にはそれに伴う記憶もある。感情食うと同時に、食われた感情に関係する記憶も消える。今回は弟の幽霊が後ろにいるって話だけ消したんだろ」


 「厄介だよなあ……」と呟くクティさんの様子からいって、普通ではない力なのだとは分かった。


「じゃあ、もし私たちが彰君に不都合だと判断したら……」

「アイツからお前らの記憶だけ消すことも、その逆もリンさんは出来る」


 クティさんの言葉に私は息をのんだ。なんてチート能力だ。


「だから気を付けろ。あの人がお前に優しいのは、彰さんがお前らに心を許してるからだ。お前らが許されているわけじゃない」


 クティさんは念を押すように私と、香菜を見た。

 勘違いするな。根本的に私たちとは違う存在だ。普通に見えても、害がないように見えても、そうじゃない。そう見せかけているだけなのだと、クティさんは私たちの心に刻み込む。


「……最後に、一ついいですか?」


 私の言葉にクティさんは眉をひそめた。それからため息混じりにつぶやく。「お前ならそれを選ぶよな」と。


 クティさんに見透かされた選択が一体どんな未来に向かっているのか、私には分からない。今までは最善だったとクティさんは言っていた。だが、今回もそうとは限らない。

 それでも私は聞かずには、いられなかった。


「彰君の後ろには、まだ弟がいるんですか?」


 いつの間にか近づいていた日下先輩と吉森少年が息を飲む。クティさんは目を細め、それからハッキリと答えた。


「いる。アレは成仏するとか、そういうレベルの可愛いもんじゃねえ」

 クティさんはそういうと、リンさんが歩き去った方向を見つめる。


「何も知らずに置いてかれるのと、全てを知ったうえで置いてくのと、どっちが辛いんだろうな」

 説明不足のクティさんのつぶやきは、彰と弟の事なのだと、かろうじて私にもわかった。


「どっちも辛いでしょ……」


 一緒にいるのが一番に決まっている。置いてかれても、置いていっても、一緒にはいられない。どんなに相手を思っていたって、伝わらなければ意味がない。

 彰の反応を見ると、伝わっているとは思えない。きっと日下先輩と唯ちゃんみたいに……もしかしたらもっと複雑に、すれ違っているかもしれない。


 私の言葉にクティさんは驚いた顔をして、それから苦笑した。

「全く、その通りだ……」


 その言葉が彰の現状の答えだ。

 彼らは今もすれ違い続けている。


「人のお節介してる場合じゃないでしょ、バカ彰」


 思った以上に泣きそうな声は、空の移り変わりとともに夕日に溶けて、彰には到底届きそうになかった。

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