第69話:にくしん

 肉親とは、どういう人のことを指すのだろうか。辞書を引けばたぶん、とても近い血縁者とかそんなことが書いてある。


「お婆さんと言っても二人居るわけだけれど、お母さんの母親だよ。お父さんのほうは、僕も知らない」


 そうであれば、二親等しか離れていないお婆ちゃんは、肉親に違いないのだろう。

 親族なんて、誰も居ないと思っていた。だからそんなに近い人が居ることは、とても嬉しい。


「ある会社を経営していて──あ、いや。経営していたのだけれど、この夏に引退したそうだよ」


 でも一つ、疑問が残る。

 例えばよく問題にされる、ネグレクトをしてしまったお父さんやお母さんは、子どもにとって肉親なのだろうか。


「ええと……お母さんは、駆け落ちをしたらしいんだ。それで行方が分からなかったけれど、僕が高校を卒業して間もないころ見つかった」


 もちろん存在さえも知らなかったのは私だけで、この数ヶ月に起こったことも、お兄ちゃんは知っているようだけれど。


「あの事故が新聞に載ったからね。地方紙だったけれど、職業柄で目に入ったみたいだ」


 それで拗ねたりする気持ちはない。お兄ちゃんの話を聞くと、誰か一人がいいとか悪いとかいう話ではないみたいだから。


「それで僕と言乃を引き取ると言ってくれたんだけど……断った」


 それなのにどうして、お兄ちゃんはつらそうな顔で話すのだろう。

 まだ二十歳にもなっていなかったお兄ちゃんは、どうして救いの手を取らなかったのだろう。


「お婆さんは、お母さんのことをどうでもいいと言った。それでも僕たちは血縁があるから、面倒を見るって」


 ああ、そうか。

 肉親であるためには、心が必要なんだ。少し前までなら、分からなかったかもしれない。


「年に一度くらいは、連絡が直接あるよ。言乃には、言わなくていいと言われていた。このまま顔も見ずに一生を過ごすなら、知る必要もないってね」


 ただ同じ空間に居るだけでも、友だちになることはある。

 その中で親友になるには、やっぱり心が通じ合わなくちゃいけない。

 純水ちゃんと祥子ちゃん。大切な、大切な、私の親友。


「それでも僕は、お婆さんに頭が上がらないんだ」

「どうして?」


 私は人を、嫌いだと思ったことがない。まだ話に聞いただけのお婆ちゃんを、嫌うまでの理由もない。


「名前を聞いたら分かるよ」

「名前?」

「お婆さんは、須能言葉すのうことはという」


 須能。

 とても聞き覚えのある名前。それは東京にある、出版社の名前。

 須能出版。それはお兄ちゃんが連載を持たせてもらっている雑誌を、刊行している会社。


「須能出版の社長さん、なの?」

「元、だけどね」


 お兄ちゃんは、テーブルに両手をついて頭を下げた。土下座ではないけれど、きっとそういうつもりだ。


「え、やめてお兄ちゃん。どうしたの?」

「ごめん。僕が言乃を養ってきたなんて言って、全部お婆さんのおかげなんだ。それなのに言乃には黙っていて……」


 連載を持てたこと。その前に、いくつかの本も出版したこと。

 そんなことが全部、お婆ちゃんに頼って実現したの?


「今日、お婆さんの部下だった人がここへ来たんだ」

「そうなんだ──」


 私が学校から帰った時、お兄ちゃんの様子が少し変だった。あの時がそうなのかもしれない。

 お兄ちゃんは、インスタントだけれどおいしいコーヒーを出そうとした。でも相手はそれを断った。

 その状況だけでも、あまりいい話ではなかったのではと想像が出来る。


「代替わりしたから、僕が連載を続けられるかは分からない。そうなったら言乃を養うのは難しいだろうから、引き取ってもいいと言っていた」

「そんな──急にそんなこと。無茶だよ」

「分からないと言いながら、たぶん決定なんだ。頼りない兄貴でごめん」


 悔しそうに拳を作るお兄ちゃん。そこにどんな言葉をかければいいのか、いくら悩んでも出てこない。


 引き取る。私をというと、お兄ちゃんはどうなるのだろう。それにそうなったら、私は東京に行くのだろうか。

 高校を卒業するまでは、待ってくれるのかな。それでもここを離れるのは嫌だな。


「面倒見の悪い人じゃないけれど、一度決まったことは、なかなか翻意しない。だから言乃は僕と居て苦労するより、お婆さんのところへ素直に行ったほうがいいのかもしれない」


 無理に浮かべた笑顔。

 苦しそうなのに、優しさも感じる不思議な表情。それに似たものを、少し前にも見た。

 音羽くん。彼も無理に笑って、私を励ましてくれた。


 お婆ちゃん、ごめんなさい。私はあなたを、好きにはなれないかもしれません。会ってもいないのに、失礼だとは思います。

 だから会えた時には、なるべくいいところを探そうと思います。


「分かった──」

「言乃?」

「私、お婆ちゃんのところに行く」

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