4話 誰かのかわり(7)
何度目か、地面の
館から飛び出して、森の中にある馬車道を走ってきた。けれど馬車道といっても舗装されているわけではなく、木が切り拓かれて土が踏み固められている程度だ。目をこらせば月明かりでぼんやりとまわりが見えるくらいで、街灯などない。
エミリーは道の端に寄って、木の根元へ力なく座りこんだ。顔を伏せて目を閉じると、鮮烈な橙色が蘇ってくる。
リボンは、魔飾だった。自分の手から炎が燃え上がるのを見た。館を、焼いてしまった。
顔を上げて、握りしめた右手を震えるように開く。強く握りしめすぎてリボンが折れてしまっているのがぼんやり見えた。
傷口を引っかかれたように、マリアンヌの凍りついた表情が浮かんできた。ハニールのばかにしたような笑いが。イルケトリの言葉が。
『お前、そうやって自分を可愛がって嘆くだけで、現状を変えようと努力したのか? そうやって人のせいにして自分は何もしない奴が俺は一番嫌いだ』
何が分かるというのだ。もっと別の道があった? もっと努力していればこんなことにはならなかった? そんなの、結局部外者の言い分だ。自分は安全なところから見下ろして、綺麗事を並べているだけだ。
分かるわけがない。向こうの気持ちが分からないように、こちらの気持ちなど分からない。
「じゃあどうすればよかったっていうの」
呟いた言葉の最後は震えて高くなった。抑えていたものが決壊したように涙があふれてきて、喉がつまる。
どうして、こんな思いをしなければいけないのだろう。
もう、魔飾も、悪意も、何もかも、すべて、嫌だ。
連鎖のように涙がこみ上げて、あふれて、落ちる。声を殺さず、泣いた。
熱く重い目をまばたかせながら、エミリーは顔を上げた。涙が止まり、心が少し楽になったかわりに頭がぼんやりとする。馬車道は変わらず闇に包まれていて、その延長のように星の散る夜空が広がり、月が頭上からすべてを淡く照らしていた。
(これからどうしよう)
立てたひざの上に腕を組んであごを乗せる。
まず、アージュハークまでの道が分からない。馬車も通りかからないし、通ったとしてもお金を持っていない。今からどこか近くの街へ歩いてたどりつくのも現実的ではない。野宿も盗賊が出るかもしれないし、今すぐ野犬や熊に襲われてもおかしくない。
(本当にどうしよう)
ミス・ドレスには戻りたくない。
そう思ったとき、何の前触れもなく視界が、顔全体が塞がれて、後頭部が打ちつけられた。何が起こったのか分かる前に、右袖をまくられる感触がある。おそらく背後から木ごと顔に布を巻かれて引っぱられたのだとようやく理解して、右腕に細い痛みが走る。
反射的に手足に力が入る前に、睡魔に負けたときのように、抵抗しなければともがく意識が、薄くなっていった。
視線を落としたテーブルに、紅茶のカップが置かれる。イルケトリが顔を上げると、隣にトレイを持ったヒフミがほんのわずかに心細そうな顔をして、立っていた。
「ありがとう」
イルケトリは緩く微笑んで、湯気を立てている紅茶を一口飲んだ。オーナーの不安は従業員に伝染する。たとえうわべだけでも気丈に振るまっておかなくてはならない。
エミリーが飛び出していったあと、玄関の炎は魔法で『消した』。庭に出たが、もうエミリーの姿はなく、森のほうへ駆け出そうとしたところをシンティアに止められた。渡り廊下の炎も『消し』て、食堂に連れてこられた。
「エミリーを捜してくるから、イルキは絶対ここから動かないでね。平常心を保てない人が森に入って迷子になったら本当迷惑だから。ほら、ハニール早く」
シンティアはものすごく嫌そうな顔をして、激しく嫌がるハニールを無理やり引きずっていった。
隣のヒフミが立ったままこちらを見つめているのに気付く。
「座ったらどうだ。疲れたなら部屋に戻っててもいい」
ヒフミは静かに動いて、向かいの席にトレイを置いて座った。
シンティアには平静さを欠いていると言われたが、そこまでふだんと違うのか、自分では分からない。たしかにいろいろなことが一度に起こりすぎたが。ヒフミの話ではマリアンヌは今は部屋に戻っているらしい。
いつもなら紅茶の香りをかげば落ち着くのだが、今は館が焼けたときに上がった煙の、焦げた強い臭いがここまでしてくる。当分消えないのかもしれない。炎が、消えたあとも人を苦しめるものなのだと、初めて知った。
どれくらいたったのか、食堂のドアがひらいて、イルケトリは顔を上げた。シンティアがオイルランプを手に歩んでくる。
「あれ、ハニールは?」
「戻ってきてないが」
「あっそ。まあ最初から期待してなかったけど」
シンティアはこの上なく不機嫌な顔でオイルランプをテーブルに置いた。
「エミリー、このあたりにはいなかったよ。暗くて見落としたかもしれないけど」
複雑な表情をしたシンティアに、イルケトリはあいまいに返事することしかできなかった。
「ヒフミは? 何か『聞こえ』る?」
シンティアがヒフミのほうを向く。ヒフミは目を閉じて、少しのあいだ動かず、目を開く。
「さっき、少し。でも今は何もない」
どうするべきか、イルケトリは言葉が浮かんでこなかった。
「今日はもう暗いし、明日にする? イルキ」
柱時計を見ると午後九時になろうとしていて、シンティアの言うとおりだった。そんな簡単なことも浮かんでこないほど平静ではないのかと、今さらシンティアの言葉を実感して自分に呆れる。
「そうだな。ヒフミ、ありがとう。もう戻ってくれていい」
ヒフミは不安そうな顔をしていたが、トレイを持って立ち上がる。
「あ、ヒフミ、部屋まで送るよ。何なら一緒に寝」
「おい」
シンティアの声を思わず遮っていた。こんなときまでこいつは一体何を考えているのだと思ったが、何も考えていないのだった。シンティアは言ったことは守るが、言っていないことは守らない。ある意味純粋で子どものようだが、ただ頭の中に花が咲いている変態なだけだ。
シンティアを止めようと立ち上がったとき、ヒフミがシンティアのもとまで歩いていって、トレイを差し出した。
「いらない。まだ寝ない。トレイ送って」
ヒフミは表情を変えずにトレイを渡して、ドアまで歩いていく。
「ええ、そっか……分かった」
シンティアは
「ヒフミ」
ドアのところでヒフミが振り返る。
「何か『聞こえ』たら教えてくれ」
ヒフミはかすかに微笑んで、頷いて、食堂から出ていった。
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