黶(あざ)
黎明
第1話 呼び出し
1
とある喫茶店。珈琲の香ばしい香りが優しく鼻を擽る店内に漆黒の鞄を提げ、ベージュのコートを羽織った長髪の青年が颯爽と現れた。精緻な顔立ちと、整った輪郭。華奢な体つきは人々に好印象をあたえる。慇懃に店員に軽く会釈をして、喫煙席の紅いソファに座る小男の元に向かった。座るなり、青年は胸ポケットから煙草とライターを取り出した。煙草を一本、口に銜え、[SAROMU]のロゴが彫られたライターの蓋を開け、火をつけた。焔焔と燃え上がる火は、うっすり胡粉色の煙をあげた。
「話ってなんや。」
青年が薙髪で無精髭を蓄えた小男に問う。小男は灰皿に煙草の先を捻じ込み、圧砕した。青年の目を一瞥して、ゆったりとした間をとって、小男は
「まぁ、そう慌てなさんな。お互いやっとこさ娑婆に出てきたんやから、まずは世間話でもしまひょ。」
と余裕をもって答えた。青年は呆れた顔で、
「こっちは金が必要なんや。まさか仕事に銭一円絡んでへんのとちゃうやろな。」
小男はこれを聞いて、声をあげて笑った。
「嘉瀬はん。わしがそんなへま、しますかいな。これでも夔夜叉会の構成員でっせ。」
嘉瀬と呼ばれた青年は満足そうに頷く。小男は続ける。
「仕事はこりゃまた、たいそうな殊勲もんや。ひょっとしたらわしは幹部に遷れるかもしれへん。」
「儲かる仕事ならええ。こっちかて時間割いてここきとるんやさかい、そらおいしい話やないとあきまへん わ。」
「そらそうですわ。その程度の礼儀、こちとて、ちゃんとわきまえてますで。」
それもそうだとお互い、顔を見合わせて笑った。
「それはそうと、高松鐵鋼はどないしましてん。ムショのお偉いさんに紹介してもろてた工場での仕事は。」
嘉瀬は苦笑いして、
「わりに合わんな仕事っちゅうのは。安心しんさい。もう架空詐欺の仕事、再開しとりますわ。」
嘉瀬は話の途中に笑みを零しながら、幾分、苦しそうに話した。
「中毒性があるわ。あんなに楽して金が入るんやから、そんじょそこらの競艇や競馬とちゃうで。なぁ、橘。」
橘は小さな畏怖を含んだ口調で、
「やっぱり長年、社会の影の世界で生きてると絶対にそこから、出れへんくなる。それが恐ろしいとこや。
でも、安定した金が毎月、入ってくるしな。そのへんはええんやけど。」
と謂った。嘉瀬は相槌をうって、
「おいしいゆうても、それなりの覚悟が必要や。キャリアないと訴えられてはい、おしまいやからな。」
といつになく暗い顔で言った。
暫く、二人は黙った。店内に嚠喨と響くクラシック音楽。先に話をきりだしたのは橘だった。
「そうや。すっかり忘れとったわ。預かっとったものがあんねん。」
橘は自分の鞄に徐に手を伸ばし、中から膨らんだ封筒を三つ、取り出した。机上に乗せてみて、改めてその、厚さがわかる。嘉瀬は橘の表情を静かに窺う。鋭く尖った目尻が微かに緩み、橘は静かに綻んだ。橘は取れと謂う風に顎をしゃくってみせた。嘉瀬は目の前で起こったことに衝撃を受けたが、恐る恐る封筒に手を伸ばし、グッと攫んだ。中を覗くと壱萬円紙幣が束になって、封筒に詰まっていた。紛れもない百万円である。
「どないしたんや。こんな金。」
嘉瀬は素直に驚き、浄机に手をつき、身を乗り出して、訊いた。橘は悠然と構え、咳を一つ吐いて、
「ちょろいもんでっせ。難波で若者に官能ビデオや謂うて、ディスク一枚、二万円で売りつけたら、これが 見事、跳ぶ様に売れてね。一日でこんだけ儲かりましたわ。ま、勿論、中身はやっかいになってる某パチ ンコ店の広告やけどね。まぁ、わしのポケットマネーや。」
「日頃、打たせてもらってる礼かいな。お前にしちゃあ珍しいな。」
橘はかぶりを振った。
「嘉瀬はん、無償でわしはこんなことしますかいな。これはビジネスです。パチンコ店はただのスポンサー ですがな。まさか、あんた、わしが大阪一のビジネスマンやいうこと知らんかったと違うか。」
取り繕った真剣な顔で、笑いを押し殺しながら、
「いつそんなもんに転職しはったんですか。噂では聞きませんけど。ビジネスマンでっか。へぇ~。えらい けったいな仕事に就かれましたな。」
「そら、学歴社会ですから。現役ヤクザがビジネスマンに転職するなんか、最近は多々ありまっせ。」
「そうですな。学歴社会ですもんね。そらそんなことあってもしゃあないですわ。じゃあ、俺は今、大阪一 のビジネスマンと話させてもろてるんやね。ああ、なんちゅう名誉や。帰ったら親に自慢しょ。」
二人はまた、顔を見合わせると声をあげて笑った。二人は刑務所から出て、交わしたやりとりの中でこのとき、一番笑っただろう。
「おふざけはこんくらいにしといて、仕事の話をしまひょ。その金は前金やと思って、とっといてくれ。」
「わかった。前金ゆうことは場合に応じて、成功報酬もあるっちゅうこっちゃな。」
嘉瀬は察した。そうだと確信していたが、素直にそうやって発言することで相手が話を濁らせて、報酬を独り占めにすることを防ぐ、れっきとした嘉瀬の戦法の一つだった。
「さすがやな。金の話はほんまに話が早いわ。そんときは5:5で山分けや。」
橘は表情一つ変えず、淡々と喋る。橘に騙されたことは一度もないが彼が殺人を一度行い、脅迫、恐喝、詐欺の常習犯であり、はっぱ(麻薬)をやっているということは忘れてはいけない。
「とりあえず、仕事の内容を教えてくれへんか。百万だすいうのはそれなりにヤバイ仕事やろ。はっぱか シャブ(覚醒剤)かの密輸か。チャカ運ぶか。ましてや殺る仕事か。大体、こっちはある程度見当ついてるで。」
「いやそんな仕事やない。シャブにはいくらか絡んでるけどな。」
嘉瀬は難しく眉を顰めた。唾を飲みこんだ。嘉瀬はとうとう観念して、
「もったいぶらずにはよ教えろや。」
と不機嫌そうに謂った。橘は満足げに笑って、急に摯実な顔になって、
「メタンフェタミンって知っとるか。」
と嘉瀬に尋ねた。
「戦時中にビタミン剤として普及されてたいわゆる劇薬でしょ。ポン中とかいう社会問題を引き起こしたっ ていうやつやろ。がっこでなろたよ。」
「そうや。1893年に日本の薬学者の長井長義によってエフェドリンから合成されてうまれた、別名・中枢神経刺激薬。コカインやアンフェタミンのお仲間さんやな。こいつを入手してほしいねん。」
「解った。入手経路は明確なんか。」
嘉瀬の問いに橘は腕を組んで、
「アメリカで認識能力増強剤っていう名で売られてるんやけど、情報はそれだけや。どっかのサイトでわし が販売者か製薬会社にコンタクトかけてコンセンサスを得たら、金渡すから、お前は渡米して薬を買ってきてくれや。」
嘉瀬は橘の言葉にただただ驚嘆した。まさか自分が渡米するとは思ってもいなかったからである。
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