聖心乙女まりあ
鈴穂(すずぽん)
第一話○まりあと夢みるかなえ
白羽まりあの頭の中ではいつも、天使と悪魔が闘っている。
「どうしよう、このペットボトル」
今だってそう。通学路で買った炭酸ジュースを飲みきってしまったその瞬間、脳内大戦争の火蓋は切って落とされた。
『ポイ捨てしちゃおうぜ! ゴミ箱まで持って行くなんてめんどくせー』
『ダメです、まりあさん! 悪魔の言うことになんて耳を貸さないでください!』
「んぅう……」
まりあはしばらく頭を抱えてから、きょろきょろ辺りを見回した。この十字坂町で一番見通しの悪い狭い路地には、先ほどまでは他の中学生たちが二、三人歩いていたけれど、今はまりあだけ。
『おい、チャンスだぜ! 捨てちまえ!』
(よ、よし、誰も見てないな)
まりあは「えいっ」と思い切ってペットボトルを道の脇に投げ捨てた。ペットボトルはころんころん、と軽快に道を転がっていく。
『あ―ッ! なんてことですか、嘆かわしいっ』
(うるさいなあ! 天使は黙ってて!)
頭の中で天使がぎゃあぎゃあ騒ぐので、まりあは急いでその場を離れることにした。この道から抜け出してしまえばもう、ペットボトルを誰が捨てたのかは誰にもわからない。まりあの罪悪感も薄れてくれるだろう。
しかし、まりあがペットボトルに背中を向けて駆け出そうとした瞬間、後ろからガラガラと車輪がコンクリートを転がる音が聞こえてきた。
(しまった、誰か来た!)
振り返ると、曲がり角を曲がって道に入ってきたのはベビーカーを押した若いお母さんだった。ベビーカーに一人、背中にもう一人赤ちゃんをおんぶしている。お母さんがベビーカーを押す、その軌道の先に、さっきまりあが捨てたペットボトルがまるで通せんぼするかのように転がっていた。
『まりあさん! このままじゃあのベビーカー、ひっかかってしまいます!』
(もうっ、仕方ないなあっ)
くるっとポニーテールを翻して、まりあは自分の捨てたペットボトルをぱっと手に取った。顔を上げると、お母さんと目が合う。
「あら、お姉ちゃん優しいねえ」
お母さんがそう言って微笑むと、背中の赤ちゃんが目をぱちくりさせてまりあを見た。黒くてまんまるの瞳に、真っ赤な顔を変に引きつらせた自分が映る。
「あ、あはは……」
しばらく曖昧に笑ってから、まりあは逃げるように駆け出した。沸騰しそうな頭の中の中で、天使が満足そうに鼻歌を歌い、、悪魔はぼそぼそ文句を言っていた。
まりあはいつもこうなのだ。頭の中で天使と悪魔が闘ってしまうせいで、色んなことにいちいち悩んでしまう。
(ああ、こんなに面倒なら、最初からペットボトルなんて買わなければよかったっ)
冷や汗の染みた左手を握り締めると、空のペットボトルがべこっと潰れた。
―☆☆☆―
「はーっ、疲れた」
まりあは聖アンジェ女子中学校一年二組の教室にたどり着くや否や、椅子にどかっと腰掛けた。
「まりあちゃん、朝からお疲れですか?」
飴玉みたいに透明な可愛い声。顔を上げると、親友のかなえが机越しにまりあを覗き込んでいた。ふわっふわの内巻きヘアーがまりあの机に乗っかる。
「おはよう、かなえ。ちょっとね……」
かなえはげっそりしたまりあの顔を見て、眉をハの字にして微笑んだ。
「もしかして、また『いいこと』しちゃったんですか?」
「まあ、そんなとこだよ」
まりあはぼんやりと応える。実際は自分の捨てたゴミを拾っただけだから、いいことでもなんでもないのだけれど。
「まりあちゃんはとっても優しいから、いつも苦労しちゃうんですよね。カナはそんなまりあちゃんが好きですよ」
「かなえ~!」
「よしよし、まりあちゃんはいい人ですねぇ」
かなえにしがみつくと、疲れきっていたちょっと癒された。まりあの頭の中の天使とは大違い。本当の天使って、かなえみたいな子のことを言うんじゃないだろうか?
まりあがかなえのぬくもりに身を委ねて幸せな気持ちになっていると、突然かなえがぱっと手を離した。
「そんなまりあちゃんにぴったりの、元気が出る歌があるんですよ! 聴いてくれますか?」
まりあが返事をする前に、かなえはポケットから音楽プレイヤーとイヤホンを取り出して、イヤホンの片方をまりあの右耳に押しこむ。すぐに、音楽が聴こえてきた。
泣かないで、私は隣に居るよ
不安なときはいつだってささやきかける
『きっとできるよ』って……
透明でのびやかで、それでいて暖かく心に染みこむ、まさに天使の歌声。かなえの声にも少し似てる。
「またララちゃん?」
「そうです!」
かなえは机に手をついて身を乗り出して、大きなたれ目をキラキラと輝かせた。
「『天使すぎる歌姫』、奏ララちゃん二十歳! 老若男女に愛されるその歌声は、いまや世界中が大注目なんですよっ」
「はいはい、かなえは本当にララちゃんが好きだねえ」
「はいっ、カナ、ララちゃんが大好きですっ!」
かなえの笑顔がぱっと咲く。かなえの夢は、ララちゃんみたいな歌手になること。少し前、「恥ずかしいから、他の人には秘密ですよ」と言って、こっそり教えてくれたのだ。
(夢があるなんて、かなえはすごい。私なんていつもその場に流されて迷ってばかりなのに)
始業のチャイムが鳴るまで、かなえはずっとララちゃんについて喋りつづけた。
―☆☆☆―
「今日は金曜日なので、委員会活動の日です。委員会に入っている人は委員会に参加してくださいね」
帰りのホームルーム、先生の一言にまりあはゲンナリした。まりあは福祉委員なのだ。
(ゲッ、忘れてた。めんどくさ……)
『言っておきますが、サボるなんて許しませんから』
(わかってるよ!)
頭の中の天使はまりあの「めんどくさい」という気持ちに大げさに反応する。というか大体、まりあが福祉委員なんかになったのも、このお人よし天使のせいなのだ。
入学式の次の日の係決めのとき、福祉委員を押し付けられそうになったのはかなえだった。かなえは習い事があるからといって断ろうとしたけれど、何の習い事なのか訊かれて黙り込んでしまった(今なら分かるけれど、かなえはボーカルレッスンに通っていることを隠していたのだ)。助けてあげたいという気持ちと、福祉委員なんてめんどくさいという気持ちの板挟みになって―そうして迷っているうちに、かなえは泣き出してしまって―その後はもう、お察しの通り。まりあの右手が一直線に天井に向かって立っていた、というわけだ。
(まあ、あれがきっかけでかなえと仲良くなれたからいいんだけどね……)
福祉委員会の活動が行われる二年三組の教室には、すでに各クラスの福祉委員たちが集まっていた。委員たちが席に着くと、真ん中にぽっかりと空席ができる。
「あれ、二年三組の夜永さんは?」
福祉委員長が言うと、教室を出て行こうとしていた二年三組の先輩たちが振り返った。
「福祉委員長、夜永さんはここ数日学校に来てませんよ」
「そうそう、電話とかしても、連絡つかないって。やばくない?」
(夜永先輩……)
まりあは椅子のしまわれた机を見つめた。夜永先輩は去年から福祉委員をしている先輩で、校外での活動にも積極的な人だ。お年寄りや子どもたちに向ける微笑みがうっとりするほど優しく、まりあが一人で作業をしていると、時々話しかけてきてくれた。けれど、先週の委員会では、様子がおかしかったのだ。委員会の間中黙って窓の外を見ているその横顔がなんだか悲しそうで、まりあは気になっていた。
『……おいおい、なんかめんどくせえこと考えてんだろ』
(考えてないよ。そもそも私にできることなんてないし)
『……でも、心配です』
天使がぽつりと言った。
―☆☆☆―
先輩のことが気になってぼうっとしているうちに委員会が終わり、帰路につく頃には、西の山に太陽が沈みかけていた。暗くならないうちに家に着けるよう、まりあは少し足を速める。
行きにペットボトルを捨てかけた路地を抜け、町の真ん中を流れる十字川に渡された橋に差し掛かったちょうどそのとき、川沿いの街頭がぽつり、ぽつりと点灯し始めた。
三つ目の電灯に照らされて、橋の上の人影が振り返る。するりと長い黒髪に、夜空のような濃い闇の色をした、大きな瞳。それは、さっきからずっと、まりあが思い浮かべていた人物だった。
まりあは橋に一歩を踏み出す。
「夜永先ぱ―」
呼びかけて、先輩の頬が濡れていることに気がついた。目の周りも赤く腫れていて、制服の袖も色が変わっている。相当ひどく泣いていたのだ。
まりあをいつも気にかけてくれた先輩が、何かに悲しんでいる。声をかけたい。話を聞きたい。でも、突然後輩におせっかいを焼かれたら、迷惑だろうか。どうすれば彼女の力になれるのだろうか。まりあが迷っているうちに、先輩は林に向かって駆け出した。
「ま、待って、夜永先輩!」
「来ないで」
切実な声で叫ばれ、まりあはその場で立ち止まった。
けれど、このまま何も伝えないわけにはいかない。思い切って声を張る。
「私、夜永先輩の力になりたいんです! 今日も福祉委員会にいなかったから、心配で……私、ただの後輩だけど、ただの後輩だからこそ話せることもあると思うし、いつでも相談してください!」
返事はない。息を整えながら、まりあは先輩の消えていった林の小道を見つめた。
―☆☆☆―
俯きながら家への道を歩くまりあに、天使と悪魔は相変わらず絶え間なく語りかける。
『気にすんのやめろよ、もう。考えるだけめんどくせぇだろ』
(うん。でもどうしても忘れられないんだよ)
『まりあさんが心配してくれているというだけでも、夜永先輩はきっと嬉しいですよ』
(でも、私じゃ力になれないかも)
『まりあ、』
『まりあさん、』
「もうっ! 天使も悪魔もうるさいんだよ! これ以上悩ませないで。静かにしてっ!」
まりあは耳を塞いで、夕焼けに向かって吼えた。夜の町にまりあのヒステリックな声が響き渡ったその瞬間、なんだか胸がふわっと軽くなった。
なんだか、肩に乗せていた荷物が下ろされたような。
(あれ、なんだこれ)
そっと目を開けると、通学路のど真ん中に、二頭身の女の子が二人、ぽかんと浮かんでいた。まりあはしばらく固まってから、我に返って叫んだ。
「だ、誰―!?」
『まりあさん、私たちが見えるんですか!?』
白いワンピースを着た長い髪の女の子が目を丸くした。頭には輪っかが乗っかっていて、まるで、漫画に出てくる天使だ。
『なんだなんだ、もしや目覚めたのかよ?』
黒いチューブトップに黒いショートパンツの女の子も、手に持った杖のようなものでまりあの頬をつっついた。
まりあはむにむにと頬をつっつかれていたけれど、はっと気がついて黒い二頭身を手ではねのけた。
「な、なに? 目覚めたってなに、なんなのあんたたち……!」
『私はまりあさんを守護する〈優しさの天使〉、ローズといいます』
白いほうの二頭身がぺこりとお行儀よくお辞儀する。
『あたしはまりあを守護する〈怠惰の悪魔〉、レイジーだよ』
黒いほうの二頭身は空中で寝っころがったまま黒い杖で自分を指す。
『私たちの声が聴こえていた時点で、まりあさんに〈聖心乙女〉の素質があることには気づいていましたが……こうして姿まで見えるとなると、覚醒のときはもうすぐなのかもしれませんね』
「ちょちょちょ、ちょっと待って。〈聖心乙女〉? 〈覚醒〉 ? よく分からないことばっかり言わないで、順番に説明してよ!」
まりあはローズと名乗った白い少女の背中の小さな翼を乱暴につまんで問いただした。「痛いですようっ」と言われたので手を離すと、ローズはまりあに向き合って正座のようなポーズをして話し始めた。
『じゅ、順番に話します。だからつままないでくださいぃ……』
「つままないからさっさと話してよ」
まりあが睨みつけると、ローズはしゅんとして話し始めた。
『……私たちは、まりあさんを守護する天使と悪魔です。人間には一人につき天使と悪魔が一人ずつついていて、人間を守護しています。天使と悪魔が話し合って人間の行動を決め、それが人間の人間らしい生活を助けているんです。
普通、天使と悪魔は人間の無意識に訴えるので声が人間に届くことはないんですが、稀にまりあさんのように、天使と悪魔の声を聞いたり、姿を見ることができる人がいるんです』
「天使と悪魔の声が聴こえるのって私だけだったんだ!」
『逆に今までみんな天使と悪魔の声が聴こえてると思ってたのかよ……』
「お、思ってた……」
小さな頃から天使と悪魔の声が聴こえていたから意識したことがなかったけれど、言われてみたら脳内の天使や悪魔と会話していたまりあは周りから見ると変わった人だったのかもしれない。まりあは急に恥ずかしくなった。
「じゃ、じゃあさ、〈聖心乙女〉っていうのは、何なの?」
『人間の心は悪魔に弱いので、時々悪魔に心を乗っ取られてしまう人が居ます。そんなとき、悪魔と戦って心のバランスを整えるのが、〈聖心乙女〉なんです』
「ふぅん」
『つまり、町のみんなの心の平和のために戦う、正義の味方です。まりあさんにはその素質があるんですっ!』
「へえ」
『……』
ローズはまりあの顔をしばらくまじまじと見てから、ぎゅっと眉根を寄せた。
『……変身するんですよ? 可愛い衣装で必殺技を繰り出して可憐に悪魔を倒すんですよ? 普通の女の子はこの辺りで食いついてくれると思うんですけど……』
うーん、と唸る。かなえ辺りだったら、まん丸のお目目をキラキラさせて、『カナ、がんばりますっ!』なんて言うんだろうけれど。
「めんどくさそ」
まりあはそっけなく言い放った。
『そ、そんなぁ!』
ガーン! なんて効果音が鳴りそうな感じで、ローズは空中ででんぐり返った。甲高い声だけでなく、動きまでやかましい天使である。
『だめですよう、この十字坂町には今聖心乙女がいないんです。前にいた聖心乙女が、聖心乙女をやめてしまったみたいで……。だから、もし今この町に悪魔に乗っ取られた人間が出たら、まりあさん以外戦える人が居ないんです!』
ローズは必死な声で訴えてくるけれど、正直迫られれば迫られるほどに、渋りたくなってしまう。
「いやでも、私忙しいし……」
まりあが目を逸らすと、レイジーがケラケラと笑い声を上げて、またまりあの頬をつっついた。
『ケケッ、部活もやってないまりあがかよ? まー、わかるぜ。めんどくせーよなあ。困ってる人が居たらすぐ駆けつけるのが正義のヒーローってもんだけど、ヒーローにだってゲームやお昼寝のほうが大事な時もあるもんなあ?』
「そうそう! そうなの! レイジー、さすが私の悪魔だね。私が超めんどくさがりやってこと、よく分かってる」
イエーイ! と意気投合したまりあとレイジーがハイタッチするのを見て、ローズは大きなため息をついた。
『嘆かわしい。嘆かわしいです。こんなことで、もし本当に町の人が悪魔に乗っ取られたら―』
ローズが言いかけたところで、突然まりあの耳に声が響いた。
―無理だよ、カナには!
―不安で苦しい、もう嫌……!
飴玉のようにコロンと甘い声。まりあは思わず顔を上げて叫んだ。
「かなえ……?」
ローズとレイジーを見ると、二人にもその声が聴こえていたようで、小さな顔を青くしていた。
『この声……まさか、悪魔に乗っ取られた人間の……!?』
「は? まさかかなえが危ない目に遭ってるっていうの!?」
ドクン、ドクンとまりあの心拍が速く激しくなっていく。かなえ。あのいつも優しい目をキラキラさせているかなえが、悪魔に乗っ取られているなんて。想像もできない。
居てもたっても居られなくなって、まりあは駆け出した。声が聞こえてきた方、林の向こうの公園へ。
―☆☆☆―
『めんどくせーんじゃなかったのかよ』
「ピンチなのがかなえだって言うなら、話は別だって!」
川沿いを走り抜けて、林の小道を抜ける。小道の向こうには小さな丘とピクニックに人気の十字坂公園が広がっている。
まりあが公園にたどり着くと、公園の真ん中に、沢山のリボンに囲まれた真っ黒のドレスを着た少女が立っていた。少女が抱きしめている鳥かごの中に、見慣れた内巻きヘアーがちらりと見える。
「かなえっ!」
まりあが駆け寄ろうとすると、黒い少女がまりあを温度のない目で睨みつけた。
『あなた、誰? もしかして聖心乙女?』
「もしかして、かなえの悪魔なの?」
黒い少女は籠の中のかなえを見せ付けるように微笑んだ。
『私はカナの〈不安の悪魔〉』
「不安の悪魔……」
まりあの中に〈怠惰の悪魔〉がいるのと同じように、かなえの心の中には〈不安の悪魔〉が巣食っていたのだ。鳥かごの中のかなえは目を瞑り、怯えた表情で膝を抱えている。
―苦しい。怖い……。
かなえが搾り出すように呟いた。まりあの頭に響いていた声はこれだったのだ。
「ねえ悪魔! かなえを返してよ!」
『いやよ。カナは私のもの。カナは夢なんか捨てて、私でいっぱいになるの』
「夢を、捨てる……?」
遅れて飛んできたローズがまりあの耳元で囁いた。
『恐らくかなえさんの天使は〈夢の天使〉―彼女は今、夢を見る力を失って、不安に支配されているんです』
「そんな……」
『このままではかなえさんの中の天使が完全に死んで、かなえさんは〈悪魔の下僕〉と化してしまいます! 〈悪魔の下僕〉は、内なる悪魔の声にのみ操られて行動するだけの存在―そうなったらもう、かなえさんはもう二度と夢を見ることができなくなってしまう……!』
背中がぞくりとした。もう二度とかなえの夢みる瞳を見ることができなくなってしまったら―。
「ど、どうすればいいの!」
『これを受け取ってください!』
ローズは空中でくるんと一回転すると、小さなコンパクトミラーになってまりあの手元に落ちてきた。閉じたコンパクトの中から声が聞こえる。
『さあ、この聖なる鏡を開いて、私とひとつになるのです。私はまりあさんが怠惰に打ち勝ち、優しさのために戦ってくれると信じています!』
まりあはぎゅっとコンパクトを握り締めた。かなえ、まりあの大事な親友。まりあが苦しいとき、いつもかなえは励ましてくれた。あの可愛い声に、きらめく瞳に、まりあは何度も何度も救われてきた。
「今度は私が助けるよ―かなえ!」
まりあは勢いよくコンパクトを開いた。
「ホーリーコネクト!」
七色の光がまりあを包む。鏡の中に映ったローズとまりあの姿が重なっていく。きらめきが脚を、胸を、腕を、髪を包んで、まぶしさに目を閉じた。次にまりあが目を開けたとき、まりあは白いワンピースをまとい、背中には可憐な翼が生えていた。
「世界に優しき恩恵を! 聖心乙女、ホーリー・ハートフルローズ!」
まりあは背中の翼を羽ばたかせて飛び上がった。
『邪魔はさせない!』
悪魔が叫ぶように歌うと、歌に乗せて黒い闇が炎のように湧き上がってまりあを襲う。
まりあは羽を思い切り羽ばたかせて闇を避けた。いつの間にか、手には小さな弓矢のようなものが握られている。まりあは思い切り弓を引いた。
「かなえを解放して!」
まりあの放った矢が薄紅色の光の粒になってかなえの悪魔に向かって降り注ぐ。
『くっ……!』
悪魔が怯んだ、その時だった。
―カナ、もう夢みるのに疲れたんです。
鳥かごの中のかなえの声が、悲しい歌を歌うように響いた。
「かなえ?」
―だからもういいんです。こんなに苦しまなきゃいけないなら、夢なんていらない。未来なんて、見えなくていい……。
胸の奥がつん、と痛んだ。まりあはララちゃんのことを話すかなえの、歌のレッスンに向かうかなえの、夢に満ち溢れたきらきらの瞳が大好きだったのだ。
「かなえ、夢を諦めるなんてだめだよ! 思い出して、ララちゃんみたいになるんでしょ!」
『うるさい、聖心乙女!』
悪魔が黒い指揮棒のような杖で空気を切り裂く。爆音がまりあを包み込み、頭がガンガン鳴った。
「くう……っ」
目も開けられず、闇に包まれて、もう何も見えない。何も聞こえない。けれど、瞼の裏に映ったかなえの笑顔が、諦めさせてくれなかった。
「泣か、ないで……、私、は隣に、居る……よ……」
まりあは唯一動く唇と喉を動かして、歌った。
(お願い、かなえ……届いて……!)
歌声が次第に闇を払っていく。まりあはもがきながら、悪魔の近くまで降りていく。
「不安な、ときは……いつだって、ささやきかける」
まりあは震える悪魔の手を握った。
「『きっとできるよ』って……」
『何、するの……』
「ねえ、〈不安の悪魔〉さん。あなたも、かなえを守ってくれてたんだね」
悪魔がはっと目を見開いた。よく見ると、かなえとお揃いのたれ目だ。
「天使と悪魔は、どっちか片方じゃいけない。かなえがあんなに謙虚で、がむしゃらに歌うんじゃなくて真剣に夢に向き合って来られたのは、〈夢の天使〉だけじゃなくて〈不安の悪魔〉が居てくれたからなんじゃないかな」
握った悪魔の手から、すっと力が抜ける。
『……そう、そうよ。私、カナが大好き。カナに傷ついて欲しくない。そのために、〈不安〉って気持ちがあるの』
悪魔の瞳を涙が潤した。まりあはふっと笑って、悪魔を抱きしめる。
「これからも私の親友を守ってあげてね」
まりあの腕の中で悪魔が水に溶けるように消えていく。それと同時に、鳥かごも空に溶けていった。
「かなえ!」
まりあはもとの制服姿に戻ると、鳥かごから解放されたかなえに駆け寄った。
「まりあ、ちゃん……」
うっすらと目を明けたかなえの瞳には、不安と夢の色が混じり合ってきらめいていた。
―☆☆☆―
「夢の中でね、優しい女の子がララちゃんの歌を歌ってくれたんです」
かなえを家まで送る途中、かなえはニコニコしながら言った。まりあはドキッとしてぎこちなく笑う。まさか、その『優しい女の子』が自分だなんて言えるはずがない。
「へ、へえっ。よ、よかったね」
「うん。実は今日、カナ、ボーカルレッスンのとき、すごいキツいこと言われちゃったんです。カナの声はプロの声じゃない、お遊びでカラオケで歌ってる人の声だ、って。それでカナ、すごい不安になっちゃったんですけど、あの歌のおかげで元気が出たんですよ」
かなえの家の前にたどり着くと、かなえはまりあの手を離して駆け足で門をくぐり、玄関の前で振り返った。
「さてっ、今日のレッスンの復習しなくちゃです! まりあちゃん、送ってくれてありがとうございます」
「うん! かなえ、また来週!」
かなえが軽やかな足取りで玄関に入り、家のドアをパタンと閉めると、まりあはくるりと踵を返した。
『聖心乙女としての初仕事、お疲れ様です! どうです? やりがいがあるでしょう?』
ローズがコンパクトから飛び出して、満面の笑みでまりあを覗き込んだ。
『……まりあさん?』
「……つ……」
『つ?』
まりあは勢いよくポニーテールをくくっていたリボンを解き、夜空に向かって叫んだ。ローズがびくっと肩を震わせる。
「疲れた―ッ! 聖心乙女なんてめんどくさいこと、もう二度としてやんないから!」
まりあの絶叫は、十字坂町中いっぱいにこだましたのだった。
―☆☆☆―
「っ、う……、うう、どうして、……、約束、したのに、……ッ、ぐすっ」
十字坂町の東に広がる林の中、一人の少女のすすり泣く声が響く。
(ねえ、いい加減悩むのはやめて、僕の言うとおりにしなよ。最初から分かってたじゃないか。君はさ、僕と同じ悪役なんだ。ほら、鏡に訊いてごらん。世界で一番美しい、孤独な魔女は―誰だい?)
「そう、ね。私―私は妖魔乙女、イーヴィル・ナイトラベンダー。愛しいマコト、私はあなたの望みを叶えるわ」
(フフ……それでこそ君だ。僕も愛しているよ)
闇の中でひっそりと動き始めた脅威に、まりあはまだ、気がついていない。
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