さよならサンセット
猫猫仔猫
第1話 夕焼けの女
それは、ある夏の暖かい夕暮れ時の事だった。
濃縮還元百パーセントのグレープフルーツジュース(ルビー)を空一面にひっくり返したような夕焼けが街を包みこんでいた。
その赤みを含んだ橙色の眩い光は周囲に乱雑するビルの窓に反射し、街全体が夕焼けに浸食されている。そんな幻想的な光景をゆっくり見ようと、歩行者達は足を止めていた。確かに、最近稀見る美しい夕焼けだった。足を止めてまで見る価値はある。
俺はその日も、いつものように公園の隅で色紙や硯を並べて『仕事』をしていた。今日は金曜。稼ぎ時だ。夜になると酔ったサラリーマンや頭の弱いカップルが夕食後、飲み会後に勢いで買っていく事が多いのだ。俺は一旦腹ごしらえをし、夜からの仕事に備えようと決めた。
俺は軽く前屈みになり、そそくさと仕事道具を片付け始めた。するとその矢先、うっすらと視界が暗くなったのだ。顔を上げると、俺の前に一人の女性が立っていた。
(客か?しかしタイミングが悪いな。場の空気が読めない女は厄介だ)
と、心では思っても絶対に顔には出さない技術を俺は持ち合わせている。俺は道具を片付ける手を止め、笑顔で彼女の視線に目を重ねた。いらっしゃいませ、そう俺が言う前に彼女の方が早く口を開いた。
「カメラ、預かっててもらえますか?」
「え?」
「これから私、倒れると思うので」
「は?」
「貧血なんです。じゃ、お願いします」
「え?」
唐突。そして突然。
「!」
彼女は俺にカメラを手渡した途端、その場にゆっくりと蹲った。そして言葉通り、彼女は前のめりに倒れ込んだ。
「!!」
俺は咄嗟に彼女を受け止めた。
いったい何なんだ?
何がどうしたんだ?
疑問と動揺で頭が揺れながらも、俺は彼女を抱きしめながら背中をさすり様態を確認した。この時の俺は、我ながら冷静に対応したと思う。彼女は呼吸も脈もあった。ひきつけ、痙攣、てんかん類な症状もなかった事から、彼女自身が言っていたように、只の貧血なのだろう。俺はとりあえず安心した。そして冷静さも取り戻し始めた。
(・・・軽いな。こんな細いんじゃ、そりゃ貧血もするわ。ちゃんとご飯食べてんのか?)
俺は一つ溜め息を吐いた。
やれやれだ。どうしてまた、俺なんかの所に来たのだ?周りにもっと面倒見の良さそうな人だっているのに・・・全く運が悪い。全くもって営業妨害だ。人も見ている。とにかく、この状況をどうにかしないといけない。
とりあえず俺は彼女を抱きかかえ、近くのベンチまで運び、そっと寝かせた。しかし、彼女をそのまま一人にしておく訳にもいかない。結局俺は、仕事で使っている小イスを畳み、色紙や敷物をリュックに詰め込み、彼女が横になっているベンチの端に座った。
「はあ」
溜め息が出る。
俺は余程のお人好しだ。彼女をこのまま放って置いてもいいし、彼女の財布を盗んで逃げたって構わない。それは彼女の自業自得、文句は言えないだろう。
ただ・・・そこまで割り切れるほど俺も腹が据わっていない。何か問題を起こしてしまったら、今後ここで仕事が出来なくなってしまうからだ。
「はあ・・・」
溜め息が漏れる。
何もする事がなくなった俺。
手持ち無沙汰になった俺。
俺は彼女から受け取ったカメラを無意味に弄り始めた。ライカや一眼レフだとかの大層なカメラではない。どこにでも売っていそうな、安っぽいデジカメだった。
倒れる寸前に彼女が俺にカメラを渡したという事は、倒れた拍子にカメラを傷付かせないようにする為、壊さないようにする為、なくさないようにする為だろう。しかし・・・人に託してまで大切にするような代物じゃない。今時のカメラは安物でも良く出来ている。落とした程度じゃ傷ぐらいは付くが、壊れはしない。第一、なくなったとしても、別に買えば済む事。
「・・・」
とすれば、何かの思い入れがあるのだろうか?例えば、画像に秘密が。
「・・・」
俺は躊躇なくデジカメの電源を入れた。ここまで介抱してあげたのだ、これぐらいの報酬は当然だ。それに、この無意味な時間を潰す為には仕方がない。どうせありきたりな景色や、可愛らしい動物、食べる前の料理とかが写っているのだろう。
単なる好奇心。
単なる興味本位。
単なる暇つぶし。
「・・・」
一枚目の画像には、夕焼け空が写っていた。
二枚目にも、夕焼け空が写っていた。
「・・・」
三枚目も夕焼け。
四枚目も夕焼け。
五枚目も、六枚目も夕焼けだった。
「・・・」
俺は画像を次送りし続けた。このデジカメには何百枚、何千枚の画像が保存出来るのだろうか?少なくともこのデジカメには、夕焼けの画像しか写されていなかった。
「なんだ・・・これ?」
夕日。
撮った場所は違うらしいが、全て夕焼けだけの景色。俺は怖くなった。そして思えば、今も綺麗な夕焼けだ。どうやら彼女は、この夕焼けを撮っている時に気持ち悪くなったのだろう。
夕焼けか・・・一番星が見えた。今は夕方と夜の丁度中間、オレンジ色に紫が差し込んだ空だ。俺はカチカチと画像を開き続けていた。
夕日。
夕日、夕日。
夕日、夕日、夕日。
すぐ眼の前には本物の夕焼け空が広がっているのに、デジカメでも夕焼けを眺めている自分の姿が何か滑稽に見えて、俺は笑ってしまった。そして自然の夕日も人工的な映像の夕日も、俺の眼には同じに見えた。
きっと普通の人達は、生で見る自然の夕日の方に心動かされるのだろう。写真は所詮写真であり自然には勝てない、と。しかし、俺はそう思わない。どちらも夕日は夕日。生で見ようが写真で見ようが、同じものだ。
とりあえず、今分かった事がある。
この女はやばい。
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