90.二人の時間

「レジーナ嬢って、歌が得意なんですか?」


 私は思わず首を傾げた。今しがた私は令嬢達から沢山の情報を得ている。けれど、レジーナの名前は一度だって出てこなかった。ただあまり知られていないことなのかもしれない。けれど、隠す様なことでもないし、得意なら誰かの耳に入っていてもおかしくない話だ。


 さすがの殿下も得意でもない令嬢に、無理難題を押し付けることはしないだろう。小さな希望を胸に抱いた。


「いいや、今日から特訓をするそうだ」


 私の希望を打ち砕くように、殿下は平然と言ってのけた。思わず数度目を瞬かせる。彼は得意でもないレジーナに、歌を披露するように促したということか。彼女のことだ、リーガン家の名前を背負っての挑む気なのだろう。レジーナが頷く様がありありと想像できた。


 確かに、レジーナが新しい演目の先陣を切るのは、妥当と言えば妥当だ。私とアンジェリカだけが舞台に出て、レジーナだけが裏方に回るわけにはいかないのだろう。だからと言って、アンジェリカとレジーナの役どころを変えるのは無理があるような気もする。


 レジーナの男役はさすがに想像し難い。それならば、歌を披露した方がレジーナ本人にとっても幾分かマシなのかも。人に披露できない程の音痴であれば、レジーナから断る筈。私は一人で勝手に結論付けて頷いた。


「彼女なら、きっと完璧な歌声で芸術祭を盛り上げてくれることでしょうね」


 レジーナなら、堂々と舞台に立ちそうだ。きっと殿下もそう思って、この大役を任せたに違いない。


「演劇の方も、負けてはいられないな」


 殿下は口角を上げた。まるで少年のような笑顔だ。なんだか楽しそう。今まで見てきた眉間の皺はすっかりと取れていたし、何よりよく笑う。笑顔の印象が薄いからか、尚更楽しそうに見える。


「今日のアレクはイキイキとしていますね」

「……そうか?」


 殿下は首を傾げた。昨日までとは全然違うことに彼自身は気づいていないのか。ならばそのままにしておこうと、私は誤魔化す様に笑った。


「気にしないで下さい」


 悪い変化ではないのだから、意識させてはいけない気がする。


 けれど、無理はしないで欲しい。何かあれば、必ず私が助けになりましょう。私は小さく決意したのた。『クリストファー』として、今の彼を支えていくことを。


 その後、アンジェリカがサロンに戻ってきて、お小言と共に大量の資料を置いて行った。その後、サロンに残るのかと思いきや、すぐに出て行ってしまった。「まだまだやる事が沢山あるのよ」とお怒りのご様子。アンジェリカがどんなに苛立っていても、殿下は眉一つ動かさない。私はその様子に感嘆のため息をもらした。


 結局二人きりのサロンはいつも通り。殿下はアンジェリカから渡された大量の資料を読み漁り、私も別の資料を纏める。私は王宮での忙しい日々を思い出して、小さく苦笑した。


 ずっと資料に齧り付いていた殿下は、思い出したように顔を上げた。


「そうだ。クリス、話がある。今日は馬車で送っていこう」


 殿下の言葉に、私は小首を傾げながらも頷いた。アカデミーから屋敷まではそう遠くない。わざわざ馬車で時間を作る必要などない筈だ。アカデミーから王宮までの途中に屋敷があるわけでもない。殿下にとっては遠回り。話なら今ここでできそうなのに、それをしない理由が思いつかない。


 殿下の言葉には一切迷いが無かった。決定事項のように言われては、頷かないわけにもいかない。私はわけも分からず、もう一度首を傾げた。けれど、殿下は気にした様子も無く、手元の資料に目を通し始めた。



 ◇◇◇◇



 アカデミーから屋敷までの道のりが、こんなに長いと感じたことはなかった。王太子専用の豪奢な馬車。進行方向とは逆、入り口近くに座った私と殿下の距離はさほど近くはない。けれど、広いと言ってもたかが知れている。いつもよりも近くて、しかも密室だ。


「話というのは一体何でしょうか?」


 馬車に乗ってから、殿下はずっと難しい顔をしている。きっと、誰にも聞かれたくない内容なのだろう。もしかすると、重要な話かもしれない。私は背筋を伸ばした。


 すると、殿下の紫水晶がキラリと光る。私の胸は、それに呼応するように意味もなく跳ねた。


「練習、始めるぞ」

「れんしゅう……?」


 殿下の言葉は、私の予想の範疇を超えていた。私は意味も分からず、ただ彼の言葉をなぞる。れんしゅう、練習、練習……と数度口の中で唱えた。なかなか答えに辿り着けない私に呆れたのか、殿下は困ったように笑った。そして、目の前に真っ直ぐに手が伸ばされた。


 握手を求めるような彼の右手。私の目は、その骨張った手と彼の顔を何度も往復した。


「ここなら露見しない」


 殿下の言葉を理解して、私の頬が熱くなる。心の準備をしていなかった。六年前に触れたきりの彼の手は、その面影は一つも残っていない。そういえば、こんな風に彼の手を意識したことはなかった。


 骨張った大きな手は、私の知っている王子様の物とは全く違う。私はその手をじっと見つめた。殿下はその手を一切動かそうとはしない。ただ差し出されただけの手に、触れるだけ。


 そう、ただ触るだけだ。そう思っているのに、私は手を差し出すことができなかった。彼の手から逃げる様に、己の肩を握り締めてしまう。


 殿下は慌てた様に手を引き戻し、強く握りしめている。彼を傷つけてしまったことに、胸がチクリと痛んだ。笑って見せれば、彼も少しは安心する筈。口角を上げようとするも、頬は引きるばかりだ。


「大丈夫か?」


 不安そうな声が、耳に届いた。上手く答えられない。どうにか小さく頷くことができたけれど、彼の顔は酷く険しくて、私よりも辛そうだった。


「無理はしなくていい。辛いなら辞めにしても構わない」


 ようやく持ち上がった口角は、殿下を安心させられるものでは無いようで、眉の間に皺が生まれる。


 そんな顔させたい訳じゃないのに。


「それでは、ヒロインなんて務まりませんよ」

「そんなもの、今からでもどうにかできる。お前の方が大切だ」


 真っ直ぐに向けられた瞳は真剣そのもの。彼の言葉に、酷く冷え切った身体が、暖めてられていくのを感じた。


「それでも私は治したい。アレク、迷惑かもしれませんが、もう少しの間付き合って下さい」


 殿下もアンジェリカも、レジーナだって色々な物を背負って立っている。私も、こんなことで逃げてはいられない。まだ小さく震える身体に鞭を打つ。私を気遣う優しさを宿した瞳を見た返した。


「わかった。これから帰りは練習の時間に充てよう」


 殿下は最後まで難しい顔をしていたけれど、「否」とは言わなかった。


 けれど、あんなの毎日やってたら心臓が持たない。何より、殿下にあんな顔をさせたくなかった。早く治そう。その為にも練習の、練習をしよう。


 豪奢な馬車を目で追いながら、私は一人小さく頷いた。

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