88.御三家2
アンジェリカの声が響く。静かな声だと感じた筈なのに、この広いサロンの端まで届く程に鮮明に響き渡った。アンジェリカの困惑が見て取れる。殿下の提案は、それほどにアンジェリカの虚をつくものだったのだろう。
似合う似合わないは置いておいて、普通「男役を」と言われて驚かない女性はそういないものね。
私は、女役を言い渡されたあの日を思い出しながら一人頷いていた。
「ああ、そうだ」
殿下はと言えば、どこ吹く風。まるで当たり前だと言わんばかりに頷いている。眉間に皺を寄せることもなければ、恐縮している様子もない。それどころか、口を開けば今にも「良い提案だろう?」とでも言いそうな雰囲気だ。
「ご冗談がお上手ですこと」
アンジェリカが、閉じていた扇をわざわざ開いて口元を隠す。既に目が笑っていない。身も凍りそうな雰囲気に、私は肩を震わせた。けれど、殿下の方はやはり気にした様子はない。寧ろ楽しそうに笑っている。いや、こちらも目が笑っていない気がする。
その時点で、私は二人の様子を静かに見守る置物になった。
それから数度の掛け合いの後、二人の顔は鬼の様に変化し、睨み合いに突入したわけだ。両者一歩も引かない鬼達は、この部屋の温度を低くしていた。侍女達が冷めた紅茶を入れ直すのをためらう程に。
私は、空いたティーカップを手に、ふらりと立ち上がり、逃げるように侍女の元まで歩いた。慌てた侍女が新しく紅茶を入れてくれる。温かい空気に触れて、私は小さく息を吐いた。
「ありがとう」
ティーカップを手に持ったまま、私は侍女の隣に立った。戻ったら最後、巻き込まれそうなんだもの。けれど、いつも静かに佇むだけの侍女達が、困った様に私の方を見上げてきた。今日の殿下の雰囲気しかり、侍女の雰囲気しかり、違う世界に迷い込んだ様に色々と変わっている。
この数日で何が有ったのだろうかと、考えを巡らせた所で答えは出ない。けれど、悪い変化ではないのは一目瞭然で、私はそれ以上考えるのをやめた。
そして私は、見上げる侍女に優しく微笑みを返す。侍女の居るべき場所に割って入ったのは私の方なのだから、少しでも良い顔をしなければ。彼女達に追い返しされてしまったら、戻る先はあの空気の凍った会議の席だ。
「あの……お二人の分はいかが致しましょうか?」
殆ど消え入りそうな声色で、侍女の一人がティーポットを手に尋ねる。二人に視線を戻せば、まだ睨み合いっていた。あの中に入っていくのはさぞかし辛かろう。私は、小さく肩を竦めて見せた。
「あとで良いよ。どうせ飲まないだろうし」
私は一人で温かい紅茶を口に含む。二人の冷めた紅茶を入れ直した所で、一口も飲まれずに冷めてしまう。それは何だか勿体ない気がして、私は首を振った。
私が二度三度と、侍女達と他愛もない言葉を交わしている間も、殿下とアンジェリカの睨み合いは続いていた。この戦い、私がどうにかすべきなのかと思いを巡らせる。あの間に立って上手く立ち回れるものなのか、少しの不安がよぎった。けれど、その考えを打ち消すように、アンジェリカが声を上げる。
「私がわざわざ男役をやらなくても、他に相応しい人はいらっしゃるでしょう?」
アンジェリカは、忌まわし気に殿下を睨む。どうにか言葉遣いに気を付ける余裕は残している様だった。けれど、殿下はアンジェリカ以上に余裕な態度を見せていた。
この勝負は殿下の勝ちだ。
「一番相応しいのが、ヒロインに抜擢されてしまったからな」
殿下が「話は終わり」とばかりに、冷めた紅茶を一気に飲み干した。その様子を見て、侍女達は慌ててポットを手にしている。空になったティーカップがテーブルの上で主張を始めた。戻ってこいと言われているみたいだ。
そろそろ、ここに逃げているのも潮時かしら。
私は仕方なしに、慌てている侍女からポットを奪う。困った様に侍女に見つめられてしまったけれど、私は「大丈夫」と笑顔を返した。
私はティーポットを武器に、まだ睨み合う冷え切った戦場へと戻ることにしたのだ。
「アレク、お茶のお代わりを入れましょう」
いつも以上に慎重に笑顔を作る。殿下のティーカップに紅茶を注げば、彼の表情が少し和らいだ。気持ちを落ち着かせて貰いたい気持ちを込めて、アンジェリカにも笑顔を向けた。彼女が大きく息を吐き出し所で、一時休戦となったようだ。
アンジェリカも冷めた紅茶を一気に飲み干す。嗜好品としての紅茶の意味合いは、既に成していない。それでも、お代わりを要求する様に、空のティーカップが差し出された。
「二人共、少し落ち着いて話合いましょう。ここで仲間割れを起こしている様では、芸術祭は上手くいきません」
こんなところで喧嘩をしていては、新しいことをするなど到底無理だ。二人には早く手を取り合って貰わなければならない。
「そうね、少し突然のことに驚いてしまいましたわ。納得のいく理由が聞ければ、その配役で話を進めましょう」
アンジェリカが真っ直ぐに背筋を伸ばす。もう怒りは抜けて、いつもの堂々とした表情に戻った。
「アレク、それについては私も気になっていました。私のヒロイン役は、ミュラー家とリーガン家のことを考えた配役。けれど、主要な役どころにアンジェリカ嬢を加えれば、やはり何かしらの亀裂が生まれるのでは有りませんか?」
アンジェリカを擁護するわけではないけれど、気になっていたことだった。物語の主要な役どころは三役。演劇にリーガン家だけを外せば、結局のところ意味がないのではないかと考えたのだ。わざわざアンジェリカを主要な役どころに据える必要があるのか。
「それに関しては問題ない。レジーナ嬢には別の大役を任せるつもりだ」
殿下がニヤリと、笑った。まだまだ殿下の悪巧みは続くらしい。
「つまり、私が男役を引き受けることで、全て上手くいくということかしら」
「ああ」
「でしたら、クリストファー様も女役を引き受けている中、嫌だなんて我儘言っていられませんわね」
アンジェリカは、ため息をつきながらも男役を引き受けることとなった。話がまとまったことに、私は胸を撫で下ろした。あのまま、睨み合いが終わらなかったら、どうなっていたことか。
和やかな雰囲気を取り戻したことで、侍女達の強張った表情もほんの少し和らいだようや気がした。
「演劇については以上だ。他は例年通り進めて貰って構わない。他の者に任せておけばいい。二人には色々動いて貰わなければならないからな」
会議はまだ始まったばかりだ。私達は殿下の言葉に頷いた。私は期待と不安を胸に、神妙な顔を作ったまま窓の外を見た。
四角く切り取られた空では、小さな鳥が三羽、忙しそうに飛び立っていった。
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