63.春の嵐3
周りの音がどんどん消えていく。もしかしたら、実際には何の音もしていなかったのかもしれない。けれど、それを確かめるすべは私にはなかった。私の小さく息を吸う音、ドクドクとなる心臓の音だけが耳を通っていく。落ち着け。と命令したところで、この心臓は簡単には落ち着いてはくれないだろう。
「ロザリーは」
私はクリストファー・ウィザー。『クリストファー』ならどんな気持ちで、どんな表情で、妹の気持ちを代弁するだろう? 生まれた時から、一緒だった妹の恋。
悲しいのかしら? 嬉しいのかしら? 私だったら少し、複雑かも。応援してあげたい気持ちと、ずっと私の一番でいて欲しい気持ちが混ざったような。
私の中で、何かがストンと降りてきた気がした。笑っていられたと思う。少し困った顔をしていたかもしれない。色んな気持ちが混ぜこぜになった顔を大勢の前に晒しているのだろう。
「妹は、殿下のことを愛しています」
私が言えるのは、それだけだった。兄としてなのか、『ロザリア』としてなのか、正直よくわからない。でもきっと、『ロザリア』であり、『クリストファー』である私の素直な言葉だ。
「もう六年も会ってないのよ?」
「ええ、それでも」
嘘だ。毎日のように見ている。不機嫌な顔も、機嫌のいい顔も。嘘のつけない素直な顔を、私は毎日見てきた。きっと、『ロザリア』でいるよりもずっとずっと一緒だった。
「六年ぶりに会ってみたら、思っていたアレクセイと違うとは思わないかしら?」
「母上――」
「うるさいわよ、アレクセイ。大切なことじゃない」
殿下も、母親には敵わないようだ。何か言おうとする度に、嗜められている。母は強し、と言ったところか。
「大丈夫ですよ、アレク。いや、殿下。妹には毎日、全部話してますから」
にっこりと笑って見せた。しかし、殿下は喜ぶどころか、私の言葉に眉をひそめた。
応援してるのに、嫌な顔をされるとは思わなかったわ。
しかし、殿下とは逆に、王妃様は楽しそうに笑い声をあげる。殿下と私が驚いて、目を見開いたのは同時だった。
「ごめんなさいね。そう……なら良いわ。もしもアレクセイの片想いなら、アレクセイには悪いけど、今すぐにでも諦めて貰おうと思ったのよ」
「母上――」
殿下は、まだコロコロと笑っている王妃様を咎めるように、声を荒げた。しかし、王妃様はそれを許さない。殿下の前に右手を出して、小さく首を振った。
「でもね、アレクセイ。私達が与えた猶予は、自ら愛する人を見つける為の猶予。ロザリアを待つ為のものではないわ」
「母上、それは――」
「ええ、療養しているロザリアを守る為に、私達に彼女の名前を出さなかったのは理解しています。けれどね、アレクセイ。皆、貴方以上に不安なのです。貴方は若い、けれど貴方の代わりはいない」
殿下の眉間にできた皺はこれ以上増えないくらい深いのに、彼は今まで以上に顔を歪めた。苦虫を噛み潰してもそんな顔はしないだろう。
病気の『ロザリア』は、王子様の手を取る資格はないのかもしれない。けれど、こんなに迷惑をかけていても、まだ足掻きたいと、足掻いて欲しいと願ってしまう私は、とても罪深い人間だ。
真っ直ぐに殿下を見る王妃様は、母親の顔ではなく、王妃の顔をしていた。
「でも、母親として、貴方の恋を応援したいわ。ですから、条件を変えましょう。今すぐに連れてこいなどとは言わないわ。来シーズンの始まりの舞踏会、貴方と最初のダンスを踊った方が、貴方の婚約者。簡単でしょう?」
王妃様は、私のことをチラリと見て、一瞬だけニコッと笑った。殿下は渋々といった様子で、小さく頷いた。頷く他なかったと言っても過言ではない。殿下の立場なら、きっと私も頷いていたに違いない。
そして、静かに話を聞いていた群集が騒めき出す。口々に賛同の声が上がる。リーガン侯爵夫人は不満そうではあったけれど、意を唱えることはしなかった。
多くの賛同の声が輪の中にまで届く。王妃様の耳にもきちんと入ったようだ。満足げに頷き、右手を挙げ一際大きな声を上げた。
「さあ、今宵は早い春を楽しむ大切な宴。暗い顔は似合わないわ? 皆、楽しんで頂戴な」
王妃様の合図と共に、軽やかな音楽が流れ出す。皆、心得たように、四方八方に散って行った。まるで、今まで何事もなかったかのように話し出す。
王妃様は、隣にいる殿下を見上げて笑顔を向けていた。すっかり母親の顔だ。
「アレクセイ。スノードロップが綺麗に咲いているのよ。私の為に一輪持ってきて頂戴な」
「わかりました。母上」
殿下はまだ何か言いたそうに、しかしどこかホッとしたような表情で頷いている。
「一等綺麗な物を選んで頂戴ね。適当は駄目よ」
「はい」
殿下は、小さくため息をつきながらも、文句も言わずに庭園に続く扉へと消えていった。王妃様はその背中を見届けると、私の前まで歩いて、申し訳なさそうに、その細い眉を下げた。
「ごめんなさいね、クリストファー。沢山待ってあげられなくて」
「いえ、あの場を納めていただきありがとうございます」
王妃様が介入しなければ、もっと酷いことになっていたかもしれない。それを思うと感謝せずにはいられないのだ。私は小さく頭を下げた。
「いいのよ。こういう時くらいしか権力を使えないのだもの。ねえ、クリストファー。格好良かったかしら?」
「ええ、とても」
「ふふ、こういうの憧れていたのよ」
こういうの?
私は意味がわからないと、首を傾げる。すると、王妃様は悪戯っ子みたいに笑い、片目を瞑った。
「『静まりなさい』って」
王妃様は茶目っ気たっぷりに、小さく舌を出した。十六の子供がいるとは思えない可愛さだ。
「とても。とても、格好良かったですよ」
「陛下がやると、少し威厳がありすぎるのよね」
王妃様が、乙女のように頰に手を当てて、小さくため息をついた。確かに威厳のある風貌なのだ。だからといって、肯定することもできず、私は曖昧に笑った。
「あの子も陛下に似て、目つきが鋭いし、あんな性格でしょう? 誤解されやすいのよ。本当に、貴方達がいてくれて良かったわ。あの子は決して一人にはならない。これからも、ロザリアと二人で支えてあげて頂戴ね?」
「ええ、勿論です」
王妃様は、そっと手を伸ばし、その右手を私の頰に触れた。グローブ越しでも伝わるひんやりとした感触に、フルリと肩が震える。王妃様はすぐに手を引っ込めて、「あら、ごめんなさいね」と笑った。
「冬に会う時は青い薔薇のようなドレスが良いわ」
「え?」
王妃様の言葉に、私の心臓は跳ね上がった。彼女の紫水晶の瞳には、『ロザリア』が写っているように見えたのだ。
「そう、ロザリアに伝えて頂戴」
王妃様の瞳を覗けば、しっかりと『クリストファー』が写っていた。
「はい。わかりました」
「うふふ、よろしくね」
片目を瞑って笑う王妃様は、楽しそうに笑うだけだ。すぐにくるりと私に背を向け、そのまま軽やかな足取りで、玉座の隣へと戻って行った。
私は波打つ心臓にそっと手を当てながら、何度も「鎮まれ」と心の中で唱える。
「クリストファー」
今度は、私と王妃様の様子を見ていたお父様とお母様が歩み寄ってくる。二人にも沢山迷惑をかけた。少し青白いお母様が心配で、私はそっと頰を触れた。
「心配しないで。ロザリアは大丈夫」
「そうだよ、私達が愛してやまない双子は、どちらも強くてしっかりしている」
お父様が、お母様の肩を優しく抱き寄せてた。お父様を見上げるはにかんだお母様の笑顔を見るに、私の言葉よりもお父様の温もりの方が効果はありそうだ。
「そうね、あの子ももう恋をする年なのね」
お母様の声が震える。閉じられた瞼の上では、ほんの少しだけ、長い睫毛が震えていた。
「私達が婚約したのも十六だ。早いことはないだろう?」
「そうね」
お父様は場所もわきまえずに、お母様の頭をポンポンと、優しく撫でている。お母様も満更でもなさそうだ。昔のことでも思い出しているのか、青白かった頬を朱に染め替えた。二人の様子に私は目を細める。いつもこうなると、長いのだ。
二人が長い長い馴れ初めを話し始める前に、私は逃げ出すことにした。
「父上、母上。それでは私は殿下のご様子を見に行ってきます」
二人の返事を待たずに歩き出すことで、私は二人の長話を回避した。足早に歩けば、誰も私を呼び止めようとはしない。
今は舞踏会の最中だ。私の中で渦巻く『ロザリア』の抱える不安を、全部しまい込まなければ。今は、『クリストファー』でいなければならない。あの不機嫌な彼の顔があればできる気がした。
彼は、私を『クリストファー』として見ている。お父様やお母様のような、私の奥の『ロザリア』を見たりはしない。だから私は、彼の紫水晶に映った『クリストファー』を確認したかった。
庭園に出ると、月光が優しく照らしてくれた。ひんやりとした風が吹く。まだ、春というには寒さが勝る。
スノードロップは庭園の手前に植えられている筈なのに、彼はそこにはいなかった。
すれ違ってない筈なんだけど。
私は小首を傾げる。彼はどこに消えてしまったのか。あたりを見渡したけれど、すぐには見つから なかった。
「さて……」
まさか、部屋に逃げた? はすがにそれをやったら王妃様に叱られそうだわ。
広い庭園を歩いたら、それこそ殿下とすれ違ってしまいそうだ。しかし、このまま待っているのは性に合わない。
私は散歩がてら、庭園を歩くことにした。まだ庭園には目を楽しませてくれるような花は咲いていない。スノードロップと、月くらいしか見るものはなかった。
冷たい風を受けながら、歩いていると、月明かりに照らされて、キラキラと輝いているプラチナブロンドが目に入った。何を見ているのか、殿下は何も咲いていない花壇を見つめていた。
どんな宝石よりも輝いて見えるプラチナブロンドは、強い風に吹かれて、ふわりと舞い上がる。顔を撫でる髪の毛を邪魔そうに振り解く。
彼は私を見つけて、大きく目を見開いた。
「ロザリー……?」
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