14.噂は風よりも早い
クリストファー・ウィザーとなって、私は初めて夜更かしをした。夜更かしをした朝も、いつも通りに眼が覚める。習慣という飼い主に、良く飼い慣らされた身体だとは思うのだけれど、こんな日くらいは少し遅く目が覚めても良いと思う。シシリーに支度を手伝って貰っているというのに、大きな欠伸が溢れた。
「クリストファー様、今日はとても眠たそうですね」
「うーん……、昨日遅かったからね。早く終わらせるつもりだったんだけど、少しだけ、あと少しだけと許していったら最後まで……ね」
何って、勿論本の話。早速シシリーに用意して貰った恋愛小説。読む時間が取れるのは、寝る前くらいなんだけれど。ああ、また欠伸が。シシリーが呆れたようなため息が頭にかかる。そんな大きなため息をつかないで、反省はしてるの。
私は鏡台の前の椅子に腰掛け、私はシシリーに身を委ねているだけ。鏡ごしに目を合わせながらの会話はどこか面白い。
「一度は読んだことのあるお話しでしょう?」
「そうなんだけどね、参考書として読むとまた違った面白さがあって、一気に読んでしまった。ああ、勿論ノートにも纏めてあるよ」
見る? と視線を机に向けた。鏡ごしに、シシリーが机の上のノートを見て、「後で」と答えた。昨日、本を読みながら使えそうな言葉や言い回しを書き留めたの。シチュエーション別。あとでもう一度本を読み直すと時間がかかるもの。
「クリストファー様は、なんて勤勉でいらっしゃるのでしょう」
シシリーが私の寝癖ができた髪の毛を、丁寧に整えてくれる。私の髪の毛は柔らかいからなのか、朝起きると酷いことになっているの。人には見せられない姿。髪が長い時はこんなことにはならなかったから、初めはとても驚いた。
私、男になってもシシリーなしには生きていけないわね。一度素直にシシリーにそう、言ったことがあった。でもね、シシリーは顔を真っ赤にして怒ったのよ。『そういうことは女性に軽々しく言うものではありません』って。褒めるって難しい。
「今日は鍛錬をお休みなされてはいかがですか? 無理はいけません」
「いや、一汗流してくるよ。毎日やってることをやらないと、歯車がずれてしまうような気がするんだよ。その代わり、今日は早めに寝ようかな」
また、大きな欠伸が出た。体を動かせば、未だ眠っているこの体も目を覚ますだろう。
「本当にクリストファー様は勤勉でいらっしゃる。さあ、できましたよ」
また、背中からシシリーのため息が聞こえる。鏡の向こうの私は、いつものクリストファーだ。さすがシシリー。あの鳥の巣みたいな頭をここまで綺麗にするなんて、侍女の鏡だわ。
「真面目だけが取り柄なんだよ」
椅子から立ち上がり、シシリーの頭をポンポンと撫でると、私はいつものように外へと出た。背中からシシリーの声が聞こえたけれど、なんて言っていたかはわからなかったわ。
朝の鍛錬に、先生はいない。十歳まではお兄様と一緒に先生に習っていたから、全くの素人ではない。今は一人で体を動かして、鍛えているの。
剣技や馬術の先生は『クリストファー』になってからも雇ってはいない。座学もダンスも忙しいし、順当に行けば、お父様と同じ道でもある文官になる予定だから、かじった程度でも何ら問題ないとお父様が言っていた。
そうよね、騎士団に入隊なんて絶対しないもの。それに、お兄様に『クリストファー』を返した時に、お兄様が剣技に苦労するのは避けたいものね。
毎日と変わらない日課をこなしていく。朝の鍛錬が終われば、座学。そして、午後からはダンスの練習。
最近はお母様のダメ出しも減っていて、とても楽しいの。ダンスが苦手な子を上手くリードできるようになる練習のために、シシリーまで練習に参加することになったのは、シシリーにとっては大誤算だったみたい。
なんでも、他の侍女達に「シシリーだけ贔屓だ」と言われるらしい。皆、ダンスを習いたかったんだと思う。お母様のダンスの教え方はとっても上手だから。
ダンスの練習が終わると、シシリーとのお茶会。という名の、シシリーから外の情報を教えて貰う時間。貴族の浮気から庶民の流行りまで、何でも知ってるシシリーの話は何度聞いても飽きない。
この時間もシシリーが私の一挙一動を見ているから気が抜けないのだけれど、最近は女性らしい動きがふとした時にも出なくなっている。努力の賜物だ。
今日も今日とて、シシリーとお茶を楽しむ。
「本日の晩餐は旦那様も奥様も一緒だそうですわ」
「四人揃うのは久しぶりだから楽しみだ」
嬉しそうに笑う私に、すぐさまシシリーは首を左右に振った。
「セバスチャン様と、クロード、母と私も来るようにと仰せつかっております」
シシリーが挙げた面子は、全員『クリストファー』と『ロザリア』の秘密を知っている。別邸にいるのは、シシリーとクロードはいつものことだから気にならない。お母様の侍女であるメアリーがお母様と一緒に別邸にくるのはいつものこと。
でも、セバスチャンはこちらには滅多に来ないのよね。何があるのかしら。
「何の話があるんだろうね?」
「私の予想ですが、クリストファー様のことかと」
「私? 何かヘマをしたかな……身に覚えは無いんだけど」
最近の行動を思い出しながら、私はクッキーを齧った。毎日、清く正しく勉強もダンスも頑張っている。身に覚えがないわ。
「ヘマでは有りませんけれど、ここ数日の間にクリストファー様の噂が貴族中に駆け巡っているようですので」
……え?
あまりの驚きに、手に持っていた齧りかけのクッキーを床に落としてしまった。シシリーが慌てて拾ってくれる。
「身に覚えはありませんか? 私は外に出る度に別の屋敷で働いている友人に、『クリストファー様はどんな方なのか』と質問責めにあっております。私でさえこれですから、旦那様や奥様、果てはこの屋敷の者は誰しも、何処かで同じ質問を受けていることでしょう」
「この五年間、一度も屋敷から出てすら出ていないのに?」
「ええ、そうですね。でも、たった一度、屋敷の外の方とお会いしたではありませんか」
ああ、有りました。思い出した。あれは、七日程前のこと。逃げ出したマリーを追いかけて庭園を探していた時に、レベッカと出会った日のことだ。
「ああ、あれは酷い目にあったよ。まさかマリーが別邸の裏庭に戻って来ているなんて思わなかったからね」
ずっと庭園を探していたのよ。晩餐の時間を遅らせて。セバスチャンも侍女達も衣服を土だらけにして探してくれたわ。
ある侍女が「いつもの場所に戻っているかもしれません」と言ったので、別邸に戻ったら案の定、可愛らしく「ミャー」と鳴くマリーに迎えられたのよ。
「そちらではありません。お会いしたのでしょう? お茶会に参加されていた方々に」
「ああ、そっちか。……思い出したくないよ。あれは怖かった」
まだ脳裏に焼き付いている。いや、まだ彼女達の手の感触も残っている気がする。体調を崩したレベッカを連れて行ったお母様方を見送った後、私はお母様の代わりを務めなければならなかった。
お母様が戻ってくるのにそんなに長い時間は必要としなかった。侍女に新しい紅茶をいただいて、エーデル伯爵夫人の勧める菓子を一口貰った程度の時間だったのだから。でも、私には永遠の様に長い時間だったわ。
始めは彼女達の話に耳を傾け、頷くことで回避していたの。途中からよ。私への質問に話題が移ったのは。
思い出しながら身震いをすると、シシリーが苦笑しながら紅茶を口にしている。
あの時は質問責めに会いながら、ご婦人方に肩や腕を触られ、本当に困ったんだから。次は参考書を読み込んで上手くやる。勉強あるのみ!
質問は無難なものばかりだったわ。お母様のことや、私の好きなもの、庭園でレベッカと何をしていたのか。
一番はレベッカとの関係を何度も聞かれたの。と言っても、初めてお会いしただけだったし、体調が悪そうだからお母様の元に連れて行って差し上げただけなのだけれど。
「どの方が発信源なのかはわかりません。もしかしたら全員が全員、誰かに話しているかもしれませんね。もう王都の貴族の間では、クリストファー様の話題でもちきり。日に日に縁談の申し込みも増えておりますよ」
シシリーがとても楽しそうに笑う。ねえ、シシリー。主人の不幸を笑うって、とっても残酷よ。
ああ、気が重い。晩餐で何を言われるのか。お父様の仕事、長引かないかしら?
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