第5話 あの人の、記憶

「んー、いつまでもおまえって言うのもなぁ」


 押し切られるように裏山へと追いやられ、山菜があるであろう方面へと歩きだして数分。

 トコトコと隣を歩く狐を触りながら言えば、「ん?」と狐が首を傾げた、ように思う。


大天狗おおてんぐさまに普段なんて呼ばれてんの?」


 そう問いかけた俺に、狐の尻尾がピコ、と立ち上がる。


「名前だよ。名前。普段、名前で呼ばれない?」


 そう問いかけた俺に、狐はまた首を傾げる。


「……えっと、この様子だと、名前って何? って感じかぁ。あ、待てよ? そういえば、大天狗さまって、基本的に名前で呼ぶってしないんだっけか」


 ―― おい、そこの童

 ―― ぬしら


 とか、いつもそんな感じで声をかけている気がする。


「じゃあ」と呟いた時、ふいにぬえが言っていたことが頭をよぎる。


「名で呼べば、その者との縁ができる、だったな。確か」



 ―― それが、人であろうと、妖かしであろうと、名はソレを縛りつける一番短い呪になるんです。坊っちゃんには、賀茂真備かもまきびという名の呪が、魂を縛りつけるこの世で一番短い呪になる。



「だから、人と違って、妖かし達は本当の名は安易には教えないんだよな。でも、やっぱり、名前で呼びたいよな。仲良くなりたいなら、尚更」


 ワシャ、と撫でた俺の手に、スリ、と狐が応えるように擦り寄る。


「なぁ、名前、俺がつけてもいい?」


 そう問いかければ狐の尻尾がぶんぶんと激しく動く。


「んー、そうだなぁ」


 じっと見つめてくる狐の瞳の奥に、淡い青緑色を見た気がして、狐の瞳を覗き込んだ時、『真備まきび』と誰かに名を呼ばれたような気がして顔をあげれば、いつの間にか辺り一面が濃い霧に覆われている。


『真備』

「また……」


 俺の名前を呼ぶ声は、聞いているだけて照れくさくなるような優しく切ない声で、俺の問いかけに答えることは無い。


仲麻呂なかまろ!』


 タタッ、と駆けてくる足音は聞こえるものの、姿はなく、濃い霧が足音の方向で動いたように思う。


『君も早くコチラへ!』


 そう叫ぶ声は、とても焦っていて、その声は誰かの声に似ている気がする。


『私は、帰れないのだ』


 告げる声は哀しさで溢れている。


『なぜだ?! 約束をしたではないか! 共に祖国の地を踏もうと! あの日にっ』

真備まきび。無理、なのだよ』

『だって、君は、それなら僕は、そんな』

『なぁ、真備。私は君を ――』


 縋るような声に胸が痛くなる。

 幼い頃から、何度、この声を、この言葉を聞いてきたのだろうか。

 物心がついた頃にはもう聞いていたこの声は、歳を重ねるごとに長く、声だけではなく、ぼんやりとだが姿形を見せてくるようになってきている。


 濃い霧の中で『真備』と呼ばれていた人物。それは唐の時代に学問を学びに海を渡った日本国の遣唐使を努めた「吉備真備きびのまきび」なのだと、ぬえ白澤はくたく、祖父は言う。

 その吉備真備に「仲麻呂」と呼ばれていた人物は彼よりも先に唐に渡っていた「阿倍仲麻呂あべのなかまろ」。


 俺がこうして見聞きする光景は、何百年、何千年と昔に生きていた頃の彼らの姿なのだと、俺が、時折こうして触れるこの光景は、俺の魂に刻まれた吉備真備の記憶なのだと、いつだか鵺が言っていた。


『待って!』

『……行ってくれ』

『仲麻呂っ!』


「……ッ」


 見ず知らずの人間の会話だと言うのに涙腺が崩壊したかのように涙が堪えられなくなる。

 嗚咽が出るかのように泣く自分に「なんで俺が泣くんだ」と昔から何度も問いかけるものの、それに答えてくれる人はいない。


「も、無理っ」


 霧が先程よりも濃くなっていく。

 ケホッ、と泣きすぎて咳き込んだ時、握りしめた手のひらにヒンヤリとした感覚が伝わる。



 ―――――― 童

 ―― 起きろ、小僧


 グイッと首根っこを掴まれるかのような感覚が走ると同時に、目の前にいっぱいに真っ赤な紅色が広がり「うわっ?!」と俺は思わず声をあげる。


「うわ、とはなんだ。うわとは」

「え?」

「やっと起きたか、童」

「え……っと……?」


 やれやれ、と大きく溜め息をつくのは、紅色の面をつけ、背には大きな翼を持ち、俺をこの山へと呼び出した大天狗張本人だった。



「夕餉の時間まで一眠りするつもりでおったのに、山が騒がしくて眠れん。何事かと思えば、童、お前、何をしておった」


 あなたが夕飯までに山菜を採ってこいと無茶振りをしたんじゃないか、と心の中で思いつつも、この人の期限を損ねると色んな意味で面倒だ。とは思うものの、正直、俺もなんでこうなったのか検討もつかない。


「えっと……俺にもよく分からなくて」


 そう答えつつも、ザクザクと作業をする手を休めずに、チラリと大天狗を見ればジトリ、とした視線が自分に向けられている。

(うっわ、メチャクチャ機嫌悪いし)

 慌てて視線を外しながら、作業をすすめるも、如何せん作業の手は中々に進まない。


 それもその筈だ。

 霧の中から目が覚めたと思ったら、俺の周りにあった山菜を含めた植物たちが異常なサイズにまで成長をしていたのだから。


「なんでこんなサイズになったんだよ……美味いのかコレ……」


 サク、と刈り取った蕨を持ち上げるものの、そのサイズはまるでペロペロキャンディのようで、一抹の不安しか俺には浮かんでこない。

 でも夕飯の支度を始めるまでの時間もあまり無く、さっき狐がもしゃもしゃと食べていたから身体に害は無いのだろうと判断し、でか蕨を袋へと投げ込んだ。


「おい」

「え?」

「ほれ」

「っ?!」


 大天狗様に呼ばれ振り返ると同時にバレーボールサイズの物体が飛んできて慌てて受け取れば、シャリ、とした感覚と甘い匂いが腕の中から広がる。


「腹が減った。行くぞ、童」

「えっ、ちょっ、待ってくださっ」


 ぶわりっ、と目を開けていられないほどの風が巻き起こる。

 直後、浮いた、と自覚した瞬間、俺の身体は落下していった。









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