Ruby~忘却の森奇譚~

琥珀 燦(こはく あき)

第1話 久遠 一、

語り継がれる数多くのお伽噺の主人公たちのように、私たちは、森の中で出会った。


あの時。

私が追ってきた真珠色の蝶の胴に歯を立てた横顔。あの恐ろしく、甘美な情景は瞼に焼きついたまま、独りで過ごす時間も離れない。


その館は、深い深い森の奥に建っていた。

真昼でも足元に光がほとんど届かぬ薄暗い森。ひんやりとした、しかし凍るような冷たさではない、柔らかな湿気、甘いフィトンチッドの薫りにむせ、白い息を吐いて、あの日私は冬の蝶を追って、森の奥に迷い込んだ。

髪やリボンに絡まる枝葉と苦闘し、深く降り積もる枯葉を踏みながら歩く歩くずっと奥。・・・突然開ける小さな広場に出る。


白い外壁がほとんど細い蔓草に埋もれてしまった、古い洋館が出現する。それが彼の棲み処。


真っ白いカーディガンの肩が、淡い黄金色の髪が、カーテン越しに弱められた陽光に溶けてしまいそうな。

陶器のような瞼を伏せ、遠い遠い時間を追う、あの瞳の水晶。その横顔。独り言のように、思い出を幾度も幾度も語る深く澄んだ声。

彼の瞳は私を映さない。目の前にいて「あなたのその手に触れたい」と切望している私に目もくれず、過去の運命の恋の記憶を繰り返し語る残酷な彼(ひと)。

白い、吸血鬼"久遠"。

十三になったばかりだった私の、初めての恋の相手。



私が住む山荘の裏手の、建物にかぶさるように存在した巨大な森。この森の奥の館には魔物が棲んでいる。そんな噂があることは知ってた。なのになぜ、あの日私は恐れることなくあの森に入り込んだのだろう?

そう、あの日私は、あの美しい蝶を追いかけて、夢中で追いかけて追いかけて、森の奥に潜む恐怖など一切頭に無かったのだ。


私は十三歳にして既に人生に絶望していた。ある事件の為、精神的ショックで言葉を失い、療養の為に父の知人が所有する山荘で、身の回りの世話をしてくれる年配の女性と二人きりで生活していた。両親は病弱な弟の方にかかりきりで、私には手が回らなかったのだ。

私は、自分が口のきけない厄介者だから家族に捨てられた、と思っていた。


二月の終り。シーズンオフの別荘地の少し荒れた風景と、山荘の裏の森が発する湿度は、私には意外にも心地良いものだった。

時折、生きていることがむず痒くなる。息が詰まりそうになり、自分が纏っているものすべて、衣服や、今まで生きてきた中での思い出や、他人が自分に押し付けた自分というイメージや、空気までもが邪魔になる、そういう時には、森に入った。

枝や葉や棘や草を掻き分け二十分も歩いていると、深く縦皺が寄っていた眉間にうっすら汗が伝うようになる。大きな木の根元に座り、空を仰ぐと、僅かに木漏れ日が細い帯となって梢に揺れ、不意に、チチチッと小鳥の声が響く。そういう時、あんなにささくれ立っていた心がしっとりと落ち着いていることに気づく。


心を病み、希望、可能性、夢・・・未来に何も見いだせない、陰鬱な日々。だからといって、死を考えることは決してなかった。自殺というひどく手間とエネルギーが必要な行動には気持ちが向かなかっただけのことではあるが。

それでいて、たった一つの趣味として、何となく"文字"というものにしがみついていた。鍵付きの日記帳にほんの二、三行程度の詩のようなものや、幼稚な童話まがいのものを書きつける程度ではあったが、情熱というよりも惰性のようにその習慣は続いた。当時の私にとってとてつもなく巨大であった世界や果てない人生と、小さな羽虫のような自分との接点を、無意識にそんなことに見出していたのだと思う。

そして、自分との折合いが付かなくなった時、森へと出掛けた。

三度目に森を散歩した後、髪や肩にまとわりついた木の葉や種を見て、世話係の女性にひどく叱られた。

「裏庭の森に入ったんですね、お嬢ちゃま。あの森にはお化けがいるのです。私は子供の頃からこの土地で暮らしていて、何人もの友人たちが一人で根性試しにあの森に入り、ほとんどの子供はあの森に食われてしまったと聞いています。数人は戻っては来ましたが、何も語らず、食べることも眠ることも、やがては息をすることも出来なくなってすぐ死んでしまいました。本当ですよ。絶対に、もう二度と行ってはいけません」

暖炉の前で服を取り換え、髪の小さな葉のかけらを取るために丁寧にブラッシングをし、冷えきった身体を暖かな毛布にくるんで安楽椅子に座らせながら、土地訛りの言葉で厳しく温かく、女性は言った。

しかし十三歳の、生きる意欲を失った少女に通用する警告ではなかったし、まして既に言葉を失っている私に恐いものなど何も無かった。

そして心を病んだ哀れな都会生まれの少女に世話役の女性が注いでくれた慈愛さえ、私は薄っぺらな同情と勘違いしていたのだ。

私は、翌日の昼下がり、厚着をしてまた森へ向かった。もう意地だった。


いつものようにしかめっつらに汗をかきかき、森を歩く。歩き回り、歩き疲れていつもの木の根元にぺたりと腰かけた。

ほどけた白いリボンを縁取るレースが、棘にひっかかってほつれ、ボロボロになっている。溜息をつきながら結び直していると、

『FORGET(忘却する)とFOREST(森)ということばは響きが似ているなあ』

なんて、なぜか、そんなことを考えた。そういえばMOTHER(母)とMURDER(殺人)も似ている。

もう一方のリボンを手に取ろうとして、そのビロードの感触が妙に温かいのにギョッとする。つまんだまま、そっと右手を顔の前に回すと、大きな白い蝶が羽を震わせもがいている。驚いて手を放してしまった。蝶は私の目の周りをくるり、旋回して、飛び立っていく。

指先に、真珠色の鱗粉が煌めく。煌めいて、淡いピンクや、甘いブルーや、うすむらさきや、金銀の光を弱く放つ。

頭の中が、ぼんやりと霞む。私は無意識に立ち上がり蝶を追い始めていた。

今思えば、蝶の美しさに魅了されただけではなかった。あの愛らしい蝶は、何か麻薬的な気を放って、私を酔わせた。私をその館に誘い込むために、あの孤独な少年の許に導く為に私に近付いたのだ。何らかの理由でこの私を選んで。

どれほど歩いたのか、見当もつかない。突然、木々が途切れ、目の前が開けた。広場に緑の屋根の小さな建物が聳え立っている。

外壁がほぼ完全に蔓草に覆われている。冬なのに、握り拳大の、奇妙な・・・薄紫の数枚の花弁の真ん中に時計の長針と短針のような雄しべと雌しべが伸びている花・・・ああ、植物図鑑で見たことがある、これは時計草。壁の所々に咲いている。

ぽつんと、一階の入口の小さな扉と、二階のたった一つ小さな出窓だけが、露わになっている。その窓が、僅かに開き、中で白いレースのカーテンが、私に誘いをかけるように、微かに揺れている。


あの森の深さはそのまま彼の孤独の深さだったと思う。そしてあの扉と出窓、たった二箇所が、彼の内側と、世界をつなぐ最後の接点、希望だった。


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