第99話 大人として

 鎚を振り下ろす。また光の壁が弾けて、腕に鋭い痛みが走る。壁は消えてくれない。僕の鎚でもシエスの魔導でも、壁は破れる気配がない。

 気ばかりが焦る。どうすればいい?


「……そうね。私の二十年に、意味なんて無かったわ」


 光の向こうで剣を構えていたログネダさんが、剣を下ろしてふっと殺気を緩めた。ガエウスの言葉に、何か響くものがあったのか。そう思いかけた瞬間、彼女の姿がまた消えた。姿も気配も、跡形もない。地を蹴る音すら聞こえなかった。

 けれどガエウスは矢を放っていた。彼の右斜め前、何もないはずの場所へ向けて、魔導が使えないとは思えないほどの疾さで。ログネダさんが消えるまさにその瞬間を、ガエウスは捉えていた。彼はまだ笑っている。

 矢の先にログネダさんが現れる。飛んだ矢が、弾かれる。


「だから、救えねえって言ってンだよ。分かってんなら、どうしてそれに拘った。王国の馬鹿野郎どもを殺して、何か変わったのか?」


「……分かったような口をきくのね。私はただ、赦せないだけ。あの子を置いて、のうのうと生きるあなたのような存在を、赦せない。終わった私にあるのはもう、憎しみだけ」


 ログネダさんの気配が怒気を孕む。今度は彼女が地を蹴る音が聞こえた。ガエウスへ向けて、真っ直ぐに跳ぶ。ガエウスは、彼女が距離を詰めるその直前、本当にその一瞬、ログネダさんの脚へ向けて矢を放っていた。放ちながら、横へ跳ぶ。

 ログネダさんが剣を下に薙いで矢を払う。次の瞬間にはもう、彼女の首元へ、横から矢が迫っていた。ログネダさんは大きく跳んで躱した。二人の間に距離が開く。

 ガエウスの放つ矢は、どこかおかしかった。魔導のこもらない矢はログネダさんにとって大した脅威ではないはずだ。けれどその矢は、彼女がどうしても無視できないところへ、予め放たれて、置かれている。


「あァ、そうかよ。殺してえほど憎いなら、殺せよ。結局てめえの人生だ。好きにしろよ」


 ガエウスの声はいつもと似た、突き放すような調子。でも彼の眼は鋭く輝いている。


「……あの子を見殺しにしたあなたが何を、偉そうに――」


「だがな。ババア。てめえは、立ち止まりすぎだ。殺してえなら、どうして二十年もかけた?どうして今まで、迷ってやがった?」


「……っ」


 ログネダさんが止まった。

 二人はただ殺し合うのではなく、特にガエウスはログネダさんに何かを伝えようとしている気がする。それにガエウスはまだ十分に戦えている。あれだけ傷だらけなのに、彼の技巧にはまだ一片の曇りさえない。

 けれど傍観していい状況じゃない。いつの間にか手の痺れは消えていた。ルシャが治癒してくれていたことにすら気付かなかった。でも礼は、後だ。もう一度鎚を握る。『力』を込めて、思い切り振り下ろす。これ以外の方法はまだ、思いつかない。

 鎚を叩きつけても、壁はこれまでと同じように揺れるだけだった。僅かな穴すら開きそうにない。


「俺ァずっと思ってたんだ。もうあいつのことなんざ引きずっちゃあいねえ。俺にあるのは今だけだ。そう信じてた。だが帝国に来た途端、くだらねえ過去ばかり頭に浮かびやがる。苛立ってしかたねえ」


 壁の向こうの二人は、少しの距離を開けて向かい合っていた。

 ガエウスが、語り始める。


「国を信じた俺を信じて、スヴァルクは死んだ。なのに俺ァあいつとの約束から逃げた。馬鹿で、弱かった。代わりにあいつの夢を自分の夢にして、ごまかした。せめてあいつの憧れた冒険ってやつを、俺が成し遂げるんだって思い込んでな」


「……そんな行為に、意味は無いわ。あの子の夢は、あの子のもの。あなたが成したところであの子は、救われなどしない。あの子は、もう」


「あァ、そうだな。俺ァ逃げただけだ。冒険にな。結局、俺もあんたと変わらねえのさ。あの日のことを引きずって、何一つ振り切れちゃあいねえ。馬鹿馬鹿しい」


 ガエウスが、鼻で笑う。ほとんど聞いたことのない、彼の自嘲。

 彼の弱気な言葉に、どうしようもなく動揺してしまう。ガエウスの心の強さは僕の憧れで、僕の支えなのに、それを当の本人に否定されたような錯覚に陥ってしまう。

 馬鹿な考えを振り払うために、もう一度鎚を握る。振りかぶる。


「ならなおのこと、あなたはここで終わり。過去を振り切れないなら、前を向いて生きることなどできないわ。あの子を見捨てて、過去に囚われた時点で、あなたの未来はもう――」



「くだらねえ。くだらねえな」



 彼らしい言葉と彼らしい響きで、ガエウスはログネダさんの呪詛を遮った。そして瞬間、ガエウスが消えた。消したのは気配だけで、大きく動いてはいないはずなのに、一瞬だけ彼を見失う。魔導無しで、ただ気配のあり様だけで敵を撹乱する、狩人の神業。

 思わず、鎚を振るう手を止めてしまう。


「俺は今を生きてる。振り切れなくても、借り物の夢だったとしても、俺ァ今、迷っちゃあいねえ。それが、てめえとの違いだよ、ログネダ」


 声と共に、矢が放たれる。ログネダさんが横に跳んで、躱す。その跳んだ先には、別の矢が既に放たれていた。ログネダさんは、剣で矢を斬り裂いた。その眼には僅かに、動揺がある。

 ガエウスの動きを目で追えなくなる。彼の気配が、彼の立つ位置とは別の場所を動いている。ログネダさんも、彼の姿を見失っているようだった。

 姿と気配が別々に、脈絡なく現れては消える。どこから矢が飛んでくるのか見当がつかない。目の前にいて、身を隠す場所もないはずなのに、ガエウスがどこにいるのか分からない。ただ獰猛な声だけが、聞こえる。

 まるで意味が分からない。魔導ではないのなら、あれは何だ。彼は『志』なんて扱えない。あれがただの技術だとでもいうのだろうか。あんな技、見たことも、聞いたことさえない。


「俺たちゃあもう、大人なんだ。引きずるのは勝手だ。好きに泣けよ。だがな、迷って立ち止まるのだけは許さねえ。迷うのはガキの特権なんだよ」


 一瞬だけ、ガエウスの姿を捉えることができた。その一瞬、彼の眼はなぜか、僕の方を見ていた。


「あんなガキでも、大事なもんに捨てられて泣き喚いて、まだ何もかも引きずって、それでも前向いて走ってンだ」


 ガキとは、僕のことだろう。ガエウスが僕のことを語っている。その声はいつも通りぶっきらぼうで、でも本当に暖かかった。

 彼は僕の悩みになんて、生き方になんて興味が無いと思っていた。ただ僕の『不運』を気に入っただけで。でもガエウスは、ずっと僕を見ていてくれていた。僕が思っていたよりもずっと深く、ずっと近くで。


「また生きる意味見つけて、迷って躊躇って、間違えて落ち込んで、それでも諦めちゃあいねえ。あいつは、今を生きてる」


 ガエウスは、間違いなく笑っている。顔は見えないけれど、声の調子は荒々しく、楽しげだった。

 胸が熱くなる。彼に強さを認められた訳じゃない。僕の情けないところを見ていてくれただけだ。それだけなのに、泣きそうになる。

 僕の迷いも躊躇いも、ガエウスは笑ってくれる。笑い飛ばして、それでいいと傍にいてくれる。シエスやルシャが僕にくれる安らぎとは別の、力強い支え。

 そんな彼を失っていいはずがない。ガエウスはかけがえのない、僕の仲間だ。彼にとっては不要でも、僕が護る。そう思って、衝動的に盾を取る。


「だからよっ」


 ガエウスが声を荒げる。ログネダさんは声の方へ黒い剣を振るう。黒く歪んだ斬撃が飛んで、地を抉って爆音を立てる。けれどそこには彼はいなかった。ほとんど同時に、ログネダさんの背、死角から矢が放たれる。


「……っ、そこっ!」


 ログネダさんが振り返りながら剣を振るう。矢が黒い炎のような斬撃に飲まれて、跡形もなく消し飛ぶ。斬撃はそのまま飛んで、また誰もいない地を抉る。ログネダさんが、消えた気配を探って振り返った瞬間。

 ガエウスは彼女のすぐ脇に現れていた。すぐ脇で、拳を固めて、ログネダさんの顔、その正面めがけて振りかぶっている。

 ガエウスが、吼える。


「俺たちが、立ち止まってどうすンだよっ!ガキに背中見せて引っ張んのが、俺たち大人の仕事だろうがっ!」


 ガエウスの拳がログネダさんの顔面を捉えた。何かが折れる鈍い音。ログネダさんは正面から拳を受けて、真っ直ぐ後ろへ吹き飛んだ。魔導無しの殴打とは思えないほどの勢いで、ログネダは数度地に身体を打ち付けて、土煙と共に止まった。

 傷は負ったかもしれない。でも彼女の気配は死んでいなかった。むしろ、手に握る剣から立ち上る禍々しく黒い何かが、勢いを増しているようにも見える。



 まだ、終わりではない。そう思って、僕はひとつ、賭けに出た。


「シエス。『魔導壁』で、足場を作ってほしい。できるだけ高く」


「……、わかった」


 光の壁に向けて魔導を放ち続けてくれていたシエスが、僕の頼みに応じて魔導を止めて、代わりに空へ向けて杖を向けた。すぐに淡く色の付いた『魔導壁』が現れて、階段のように空高く伸びていく。

 駆け上がろうとして、ルシャとシエスがすぐ近くで、僕を見つめていることに気付いた。


「……どうか、気を付けて。彼女の剣の傷は、癒せません。……傷を、負わないで」


 傍に寄ってくれたルシャの声は泣きそうに震えていた。

 また、彼女たちを心配させている。でも今はどうしてか、自信がある。こういう時は、謝るんじゃなくて、笑うべきなんだとようやく分かった。ガエウスのおかげだろうか。


「大丈夫。ちゃんと戻るよ。ガエウスも、なんとかする。信じて」


 それだけ言って、笑う。

 ルシャは驚いたように目を見開いて、シエスは無表情に少しだけ笑みをのせてくれた。


 それ以上言葉を交わす余裕はなかった。走り出す。魔導の階段を跳ぶように登る。ルシャもシエスもあっという間に小さくなって、階段の最後、遥かな上空に辿り着いた。雲の上、というほどではないが、大気が冷たい。

 盾を一度背に回す。空いた両手で、足場の『魔導壁』の縁を掴む。手だけで体重を支えて、身体を中空に投げ出す。真下には小さくなった光の壁が見える。

『魔導壁』の終点にぶら下がったまま、ひとつ息を吸って、止める。そして手を離した。同時に頭を逆さに、地へ向けて、『魔導壁』の底を思い切り蹴る。真下へ向けて、シエスの呼んだ星のように、真っ逆さまに落ちていく。勢いを殺さないように、盾はまだ構えない。

 風を切り裂きながら、速度は増していく。暴風を貫く度に、兜と鎧が嫌な音を立てながら震えている。無茶苦茶な策だろう。光の壁に衝突して、僕が肉塊になって終わりかもしれない。でも、僕はスヴャトゴールの剛剣も、アルコノースの嘴も受け止めることができたんだ。たかが光の壁程度、突き破ってみせる。絶対に、ガエウスを守る。


 光の壁はもう目の前だった。ルシャとシエスの顔が見えた気がした。盾を構える。

 ログネダさんは既に起き上がっていて、ガエウスに迫っていた。ガエウスの気配は、もう消えていなかった。傷がもう限界で、動きが鈍り始めているのかもしれない。でもその動きは、何かを待っているようにも見えた。

 また、胸が熱くなる。



 力が足りなくても、心が弱くても。ガエウスは信じてくれている。僕が隣に辿り着くのを、笑って待ってくれている。そう信じる。



 その熱さのままに、ただ叫ぶ。


「発現っ!」


 盾から、青白い光が溢れ出す。瞬間、盾の光壁と『阻害』の光壁がぶつかり合って、互いを弾き合って火花のように光の欠片が散り広がる。

 一瞬の拮抗の後で、『阻害』の魔導は僅かに綻んだ。光が薄れている。ただ盾の魔導も消えていて、盾を伝って鋭い激痛が全身へ抜けていく。構わない。

 空へ向いているはずの足先に、確かな足場を感じた。シエスの『魔導壁』だろう。完璧だ。今なら、突き破れる。

 全身へ『力』を無理矢理に込めて、足場を蹴る。声にならない声が、喉からほとばしる。盾で光壁を押す。その一瞬。


 目の前、光の壁の向こうで、ログネダさんの黒剣を前にして獣のように笑う、ガエウスと目が合った。


「俺ァ前に行くぜっ、ログネダ!もうスヴァルクは、関係ねえっ!俺の冒険は、ここからだっ!――そうだろ、ロージャっ!」


 ガエウスの声にまた、『力』が湧き上がる。今なら、何だって打ち破れる。そう思った瞬間に、僕と盾はついに光の壁を貫いた。壁が破れて、光が大きく、弾けた。


 そのまま、身を回転させる。ガエウスと、ログネダさんの間に立つ。盾で、ログネダさんの剣を受ける。剣撃に重さは、さほどなかった。ログネダさんの眼には、驚愕の色があった。


「俺の、冒険だろ!ガエウスっ!」


「はっ、違いねえっ」


 僕の訂正に、ガエウスは荒く笑う。

 僕の背で、ガエウスは弓を構えて、既に矢を放ち終わっていた。ログネダさんの隙を見逃すような彼ではない。

 矢は静かに僕を越えて、ログネダさんの腕へと吸い込まれていった。ただの矢で、致命傷にはなり得ない。けれど腕の腱を正確に撃ち抜いて、ログネダさんは呻いて剣を落とした。


 まずは、守れた。油断なくログネダさんを見ながら、僕の胸には安堵が溢れて、まだ戦いの最中なのに、泣き出しそうになるのをこらえるのに必死だった。

 ログネダさんは俯いて、剣を取り直す様子もない。久しく無かった静寂が、場に満ち始めていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る