第7話 壁の文字
あたしはブラック家の夕食をご馳走になった後(素晴らしかったわ。ウサギのファルシにスープ、お変わりし放題のパン、そしてちょっとワインもいただいちゃった)ニコラスにトーラ先生の家まで送ってもらった。まだ、日は暮れていなかったから断ったのに、ニコラスがどうしても、って譲ってくれなかったの。
帰り道で、ニコラスは楽しい話をいっぱいしてくれたわ。あたしは久々の豪華な夕食にとっても満足しちゃって、ニコラスと語る会話が本当に楽しくて、気分が良かった。
ニコラスはトーラ先生の家の前まで来ると立ち止り、あたしに何か話したそうにしてたけど、あたしは気づかないふりをして、握手のために手を差し出した。
「今日は、本当にご馳走様でしたわ。あんなに楽しくて、美味しい食事は久しぶり。ありがとうございます」
「……喜んでいただけて、良かった。いつもあなたを夕食にご招待したいくらいです」
ニコラスはあたしの手を取った後、握手するかと思ったら持ち上げて口もとに運んだ。
そして、そのままあたしの手の甲に口を押し当てた。
「……では、また」
顔をあたしの手から離して微笑むと、ニコラスは名残惜しそうに手を離し、去った。
……びっくりしたわよ。
今の、て、お姫様にするような礼儀なんじゃないの?
あたしはどきどきしながら、あわててトーラ先生の家に身体をむけた。
いきなり、あんなことしないでよ。
キエスタでは手首に口づけるのが、愛の証なんだからね。この国のキスと同じよ、同じ。
動転しながらトーラ先生の家に入ろうとしたあたしは、庭に人影を見つけて立ち止った。
重なるふたつの人影は……。
ギールと。
どこの誰だか知らない女!
口と口をむさぼり合わせてこの国のキスを味わっていた二人はようやく顔を離すと、抱き合っていた身体も離した。
『じゃあね』
ひらひら、とギールは手を彼女に振り、開けた木窓に足をかけて家の中へと入った。
あいつ――!
あたしは猛烈に怒りがこみあげてきたわ。
あんた、昨日の夜も朝もお楽しみだったんじゃないのよ! それなのに、今日の午後からもお楽しみだったわけ?
結局、今日もあんたは写本のひとつもやってないじゃない!
昼間のマティスのギールを信じる素直な瞳が頭に浮かんで、あたしは更にヒートアップした。
許さない……!
あいつ、今日こそ、分からせてやるわよ……!
頭に血が上っていたあたしは、入り口から入るのを忘れて、彼女が去った窓辺に突進した。
そしてそのまま窓辺に足をかけて、中に転がり込んだ。
「姉さん……?」
ギールは、いきなり部屋に転がり込んできたあたしに気付き驚いた声を上げた。
もう就寝する気で着替えようとしていたのか、ローブを脱ぎ捨てて素っ裸だった。
……だ・か・ら。
あたしにそれ見せつけんの何度目よ、何度目。今日は二度目じゃないのよ。
「どうしたの、姉さん。オレの部屋に来てくれるなんて」
素っ裸のまま、ギールは床から立ち上がろうとするあたしに抱きつく。
「嬉しい。オレと寝る気になってくれたんだ」
「ちがうわよ!」
あたしはギールをつきとばした。
「いいよ、姉さん。強がらなくても」
ギールは憂いを帯びた瞳であたしを見つめた。
「……このまま……処女のままで、一生を終える気……?」
なに、こいつ。
あたしは青ざめた。
これが、こいつの考えた殺し文句な訳?
……あんた、この前三大悲劇のうちのひとつの、あの戯曲を写本してたじゃないのよ!
あの話を写本したやつが考えたとは思えないセリフよ。
読めないから、こんなセリフしかひねり出せないのよね! このトリ頭が!
「さっきの子は誰よ! また、新しい子に手を出しちゃったの!?」
「みてたの、ねえさん」
しぱしぱとギールは目をまばたかせた。
いいから早くなんか着ろっての。
あたしがあごをしゃくると、ギールはやっと気が付いたかのように再びローブに頭を突っ込んだ。
「……あんたね、いい加減になさいよ」
あたしは沸騰しそうな頭でギールに言った。
さっきワインなんかいただいちゃったから、いつもより感情が高ぶっていたのね。
「いくつも言葉がしゃべれるからって、いい気になってんじゃないわよ。あんたは、九番弟子なのよ。上の兄さんたちが一生懸命、写本してるのに、女の子と遊びまわって、お菓子たべて……」
なんだか、興奮しすぎて涙腺に影響が出ちゃったみたい。
あたしはくやし涙がにじんできた。
「いい気になってんじゃないわよ! 字もろくに読めないくせに! あたしたちがあんたのために、何回頭を下げにまわったと思ってんのよ! 人の気もしらないで……!」
「ねえさん……泣いてるの……?」
あたしの様子に気付いたギールがおろおろとしだした。
「黙って聞きなさいよ! あんたは特別扱いされてんのよ! わかってるの?! 感謝しなさいよ!」
そうよ。
女のあたしでもないのに、あんただけこんな個室もらってるし。
他の兄さんはみんな、一緒の部屋に寝てるのに!
……あたし、あんたに嫉妬してんのよ。
兄さんの何人かだって、あんたに嫉妬してると思うわ。
「あたしだって、この国の言葉とキエスタ南部語、東部語なら話せるし、メイヤ兄さんはジェルダ語、それにガラナ族の言葉も話せるのよ。あんただけじゃないのよ。それなのに……! どうして、あんたばっかりなのよ……!」
わかってるわよ。
あんたには、あたしたちにないものがあるんだもの。持っているんだもの。
だれもを惹きつける魅力よ。心をつかんで離さない何かよ。
だから、トーラ先生はあんたのその力を認めて弟子にしたんだろうし、城へ送るんだわ。
メイヤ兄さんもあんたを許すのよ。
あんたのためにひどい迷惑を被ったって、兄さんたちは結局はあんたを許す。
このあたしだってよ……!
「姉さん……泣かないで……ごめんなさい……」
震える声で謝るギールに、あたしは更に苛立った。
なんなのよ、こいつ。
よわよわしい声だすんじゃないわよ。
「ごめんなさい……」
「謝るなら、いい加減行動で示せって言ってるのよ!」
あたしは叫んで横の寝台にあったかけ布団をひきはがすと、ギールに投げつけた。
ギールは身をちぢこませてそれを受けた。
続けて、寝台上にあった藁を詰めた枕を投げつけようとして……。
あたしは手を止めた。
掛け布団と枕を取り去ってあらわになった寝台の向こう側の壁は。
――文字の洪水だった。
土壁の表面には、いくつもの文字が書かれていた。
この国の文字。キエスタ文字。ガラナの文字。隣国の文字。
「ギール……」
あたしはあっけにとられて、それらの文字で埋め尽くされた壁を見つめて立ちつくした。
「だから、夜に姉さんが部屋に来て勉強できたらいいな、って言ったでしょ……」
背後からギールの力ない声が聞こえた。
そうなのよ。
どうして、気が付かなかったのかしら。
ギールの頭が悪いわけないじゃない。いくつもの言葉を操れる賢い子なのよ。
字が、覚えられないわけないじゃない。
この子は、頑張ってたのよ。
頑張るに決まってるじゃない。
だから、こんなに壁に字を書いて。毎日、眺めてたんじゃない。
「ギール……あんた……」
そのとき、昼間マティスが言った言葉をあたしはようやく理解した。
「あんたも、マティスと同じなのね……」
ギールは。
あの子と同じなのよ。
そんな子なんだわ。
バカなんじゃない。努力を怠ってるわけじゃない。
本当に、字が読めない子なのよ。
ギールに目を戻したあたしの前で
「……トーラ先生と、メイヤ兄さんは気づいてる」
ギールは小さい声で言うと、寝台に座った。
「お願い。姉さん。……ほかの人には言わないで」
言わないわよ……!
この子は恥ずかしかったのよ。必死で隠そうとしてたのよ。
どうして、あたしは気づいてあげられなかったのかしら……!
「ギール」
あたしは、ギールの隣に座った。
「……最初に、気が付いたのは、かあさん。オレがバカな子だってあきれかえってた。すごく悲しかった……だから、かあさんの相手の男の人の言葉を必死で覚えた。かあさんより早く覚えた。そうしたら、かあさんも相手の男の人も喜んでくれたんだ。……かあさんは、すぐにいなくなる男の人ばかり好きになるから、だから、オレもなんとか相手の人に気にいってもらおうとして、つぎつぎに代わる男の人の言葉を必死で覚えたけど……。結局はかあさんもオレも、いつも捨てられたね」
ギールはあたしの方に顔を向けた。
その目には薄い涙の膜が張っていた。
「ここを出て行きたくないんだ、姉さん。オレ、みなしごだし、ここを出されたらどこにいっていいか……にいさんとねえさんができてすごく嬉しかったし、みんな優しいし、オレのことすごいって褒めてくれる……。でも、オレがバカだってわかったら、にいさんたちはここに置いてくれないかも。お願い、姉さん……ここを出て行きたくないよ……」
あたしはギールを抱き寄せた。
「出て行かさないわよ……!」
あたしの腕の中で、ギールはこらえていたものの歯止めがなくなったように、声を上げて泣き出した。
あたしはギールを抱きしめた。
「あんたはバカなんかじゃないわよ、ギール。大丈夫よ。あんたをここから出て行かせない。あたしが、縄でつないでてやるわよ」
今まで気づいてやれなくて、ごめん、ギール。
怒って、あんたを追い詰めて……。
苦しかったわよね。
あたしが悪かったわ。
「あたしがついてるから大丈夫よ。大丈夫」
泣きじゃくるギールの背中をなでて、あたしはギールが泣き止むまでずっとそばにいた。
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