香港

 不法投棄との戦いを終え、功なり名を遂げた伊刈は、ビクトリア湾を眼下に見下ろすマンダリンホテルにいた。セミスィートのリビングに置かれた大画面のテレビにはCNNが流れていた。飽きもせずにテロと内戦、そして異常気象のニュースばかりだ。二十一世紀とはそういう時代なのだ。あらゆる異変がイスラム教か二酸化炭素排出に結び付けられて報道されている。歴史を紐解けばわかることだが、説明上手というものは結果的にはアリストテレスの時代からインターネットの時代までずっといつだって眉唾だった。耳障りなテレビの音声を消して、自前のノートパソコンからBGMを流した。オルゲルビュッヒラインの音色で部屋の空気が澄みわたり、趣味のよい調度が粒だって見えた。

 通訳との待ち合わせの時間が近付いたので、ラフなジャケットに着替えてロビーに降り、フェリーで対岸の九龍(クーロン)に渡る埠頭に向かった。香港の町並みは横浜を思い出させた。アヘン戦争で英国に接収されてから貿易港として発展した香港は横浜と歴史の共通点も多いし、坂の多い地形に小規模の邸宅が密集しているところもよく似ていた。フェリーのデッキからはビクトリア湾越しの夜景を美しく彩るシンフォニー・オブ・ライツを一望できた。空港が郊外に移転したおかげでネオン規制がなくなり、華美なレーザーショーが可能になったという。ビクトリアピークの斜面に密集しているビルのせいで、海上から眺めると遠近法の錯覚で光の密度が増幅され、まるで巨大な光の瀑布のようだ。黄浦江(ホアンプーチャン)から見た上海浦東(プートン)の夜景と甲乙つけがたい心躍る艶やかさだ。

 通訳は阪大に留学経験がある天津出身の二十五歳の女性だった。彼女の勧めで埠頭近くの市場の二階に上った。東京にも支店があるような高級店より香港の市民が通う庶民的な店で夕食をとりたいと伊刈から希望したのだ。オープンスペースに十店ほどの食堂が安っぽいテーブルと椅子を所狭しと並べていて日本の屋台村にそっくりだった。彼女は満席になっている一番人気の店の隅っこに強引にもう一つテーブルを出させた。バドガール風のミニのワンピースを着た小柄な小娘(シャオジエ)がせわしげに料理を運んでいた。どの子もイマイチで客たちも彼女たちは眼中になく、小さなテーブルから溢れんばかりに並べた料理に夢中だった。高級店のやたらと高級食材ばかりを使った甘酸っぱい料理よりずっと食べやすい。塩卵の黄身をまぶした海老の唐揚げにはとくに感心した。中国のお酒というと日本では紹興酒(シャオシンチュー)か白酒(パイチュー)を連想しがちだが、発泡酒(低麦汁ビール)かウィスキーのストレートを飲んでいる客が目立った。ウィスキーを試してみると脂っこい料理との相性は悪くなく、濃いアルコールが胃壁の油をさっぱりと洗ってくれた。

 フェリー埠頭まで戻った伊刈は見覚えのある笑顔を見かけて驚いたように足を止めた。

 「安座間さん…」

 「よかったわ、お会いできて」

 あれから五年、妖艶さにはさらに磨きがかかったようだ。彼女は不法投棄の真相を知っている数少ないキーパーソンの一人だった。

 「香港には仕事ですか」

 「あなたを探しに来たのよ」彼女は意味深長な笑みで伊刈を見つめた。

 「冗談でしょう」

 「スケジュールを調べたらこちらにいらっしゃるようだったから。ちょっとお時間いいかしら」

 伊刈は通訳を振り返った。「僕のスケジュールを教えたのはあなたですか」

 「違います」通訳は目玉が飛び出るくらい強く首を振って否定した。嘘をつきなれていないことがかわいそうなくらい顔色に出ていた。

 「お食事は」

 「済ませました」

 「それなら軽くお酒でも飲みながら」

 伊刈はまた通訳を振り返った。「この方は日本での知り合いです。自分でホテルに戻りますから、明日の朝からお願いします」

 「わかりました。おやすみなさい」通訳は一礼すると緑色に塗装された桟橋の鉄製の階段を駆け上っていった。

 足元のインターロッキングに香港映画スターの手形プレートがはめ込まれた九龍の新名所アベニュー・オブ・スターズ沿いのオープンカフェでベルギー産のショコラとよく合う甘いバニュルスワインを頼んだ。シンフォニー・オブ・ライツを一望できる絶好のシチュエーションだ。

 「日本の産廃業界が大変なことになっているのはご存知よね」

 「このところ中国に頼りきりで浮かれていたからいい薬かもしれない。僕の知ってる会社もいくつも倒産しいくつも本社を明け渡しました。銀行の貸し渋りがひどいから一昔前なら関西の金融業者の出番でしたが、バブルの蓄えも底をついたのか最近は外資に買われるところが多いですね」

 「そのことでご相談があるの」

 「やっぱりそっちに関心がおありですか」

 「SMGをご存知かしら?」

 「資源投資会社のサウルス・マテリア・グループですね。世界中に三百拠点を持つロンドン・シドニー・上海連合のリサイクルメジャーだ」

 「さすがね。そのSMGが今度の世界金融不況を好機と捉えて日本の廃棄物業界を丸ごと乗っ取ろうとしているのよ」

 「今まで日本には拠点がなかったですからね」

 「ええそう。ゼネ商の五井商事とかスクラップ大手のソートクとかとは以前から接触はしていたけど直接投資はなかったの。だけどとうとう本体の上陸よ」

 「簡単にはいかないんじゃないですか。日本の業界は利権が複雑で法律だけで済まないから。小さな処分場一つ作るだけだって漁組やら土地改良区やらいろんな団体が利権を主張するし、左翼は必ず市民運動を扇動するし、右翼は勝手に介入してくるし面倒極まりない。あのエンロンだって漁業権って何って驚いて日本の電力投資を諦めたくらいですよ」

 「縦割りのお役所に利権の調整能力がないから有象無象の連中が介入するんでしょう。でも産廃業界やスクラップ業界の体力が弱まっている今をおいたらSMGが上陸するチャンスはないわ。すぐには表に出ないで複数の金融業者を介してさぐりを入れているようだけど」

 「まさかSMGの片棒を担げと」

 「その逆なの。SMGの日本上陸を阻止するためお力をお借りしたいの。SMGだけじゃない。EUの水道・環境企業ヴィヨンも日本上陸を狙ってる。もしもご関心がおありならだけど私のボスに引き合わせたいわ」

 「SMGやヴィヨンが循環産業のシェアを二、三パーセント取るだけで一兆円になりますよ。それを妨害する報酬はいくらですか」

 「当面外資が狙ってるシェアは日本市場の二十五パーセントだと思うわ。でもうかうかしてたら銀行・保険や製薬・医療材料みたいに丸ごと外資にやられることになるかも。伊刈さんには国会議員、大学教授、ベンチャーの社長、どれでもお好きな地位をいくつでも用意できるとボスは言ってる」

 「おいしい話だけど産廃Gメンはもう廃業したんです。僕にやれることは何も残っていません」

 「ご謙遜でしょう」

 「ワクチンと外科手術と、あなたならどっちに価値があると思いますか」

 「ワクチンには病気を根絶する力があるけど外科手術にはないわね」

 「さすがですね。だけどワクチンメーカーは病気を根絶してしまったら倒産なんです。天然痘ワクチンも日本脳炎ワクチンもポリオワクチンも作っている会社は解散しました。いずれ肝炎ワクチンやエイズワクチンのメーカーもそうなるでしょう。しかし病気や怪我をなくすことができない外科病院がなくなることはなく、外科医はますます繁盛です」

 「不法投棄をなくしてしまったあなたは成功したワクチンメーカーと同じだって言いたいの」

 「犯罪をなくすことがない警察とは違ってね」

 「そのたとえば間違ってるわ。どのワクチンの発明者も最高給の外科医のさらに何百倍の利益を得たでしょう。あなたにはその価値があるの。あなたが発明したワクチンが不法投棄を根絶したのよ」

 「ずいぶん買いかぶられたものだ」

 「人の価値というものはつねに買い手が決めるものよ。他にお願いできる人がいないからボスが頭を下げてるの」

 「あなたのボスの求めている商品になる気になったら連絡しますよ」

 「その程度のお答えじゃ困るわ。帰国されたら必ずもう一度会っていただけないかしら」

 「外資の動きを調べる時間はください」

 「ところでさっきのチャーミングな通訳はお部屋でお待ちなのかしら」

 「僕のスケジュールはすっかりご存知なんでしょう。明日は深せんに渡って講演会だけど、今夜はあなたが思っているとおりの予定ですよ」

 「それじゃ朝までのスケジュールを私にちょうだい」

 「あなたを逆指名する権利はありますか」

 「残念ながらそれはないわ」

 彼女はバニュルスのグラスにもショコラにも口をつけずに立ち上がると、クールに片頬笑んだ。

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