第二章 並木平介 7

 雨は三日間降り続け、それが上がり太陽が顔を見せると同時に俺は見事に体調を崩す。

 頭痛がひどい。喉が痛い。咳が止まらない。くしゃみが何発も何発も連続で出る。

「あんた、こんな時季外れに風邪引くなんて、馬鹿は風邪引かないっていうけど本当に馬鹿なのねー。残念だわー。バファリン飲んでマスクしてさっさと学校行きなさい」

 あからさまに嫌そうな真美子にバファリンを渡されておとなしく飲んで頷く。あれ、風邪にバファリンて効くんだっけと思うけど、今うちにはこれしかないから仕方がない。真美子のやつ、看護師の癖に俺に対する扱いが雑すぎる。

 案の定熱の出ていない俺にバファリンが効くはずなく、俺の体調は悪化の一途を辿る。頭と喉はどんどん痛くなり咳とくしゃみが交互に出る。持ってきたポケットティッシュがすべてなくなり、クラス中からかき集めることになった。

「テルル、鼻水やばいね!」

「ほんとー。まじやばいね!」

 川辺と西本からそれぞれアンパンマンと苺の香りのするポケットティッシュをもらったときは正直涙が出るかと思った。

 アンパンマンも苺の香りのティッシュも俺の心を癒してくれたが体のことは全く癒してくれなくて、四時間目を迎えた頃に俺は完全にダウンする。板書も碌に取れなくなる。頭が朦朧としている。世界が霧に包まれているかのようだ。今なんの授業をしているのだろう。わからない。誰かが俺の体を揺すっている。

「……おい、テル、大丈夫か……大丈夫かよ……」

 ライトか。やめてくれ、俺は今、体中が痛いんだ。

「そんなに体調悪いのかよ……顔真っ赤じゃん……うわ、あつっ!」

 ライトの手が俺の額に触れる。ライト、手、冷たいな。お前の手、こんな冷たかったっけ。わからない、もしかして、俺の体がおかしいのかもしれないけれど。

「のどかちゃん、こいつやばいよー。俺、保健室に連れてくよー」

 そうか。今はのどかの授業なのか。がたごとがたごとという音を立てて俺の体は浮遊する。そのままずるずると割と長い時間引きずられ、ぽん、と柔らかい場所に着地した。

「えー、じゃあセンセーもうすぐいなくなるのー?」

「ええ。ちょっと遠出しなくちゃいけなくて……」

「じゃあこいつどうするのー? 熱めっちゃ出てるしふらふらで歩けないよー」

「担任の先生知ってるんでしょう? 寝ておかせるだけなら大丈夫よ」

「うん、のどかちゃん知ってるよ」

「のどかちゃん? ああ、鍋島先生ね」

「うん。じゃあ俺授業戻るねー」

 ガラガラガラと扉が閉まり、俺は俺が保健室に置き去りにされたことを知る。目の前に誰かいる。全体的に細くて白い。多分保険医。

「はい、辰巳くん体温測ってねー」

 なんて半分無理やり脇の下に何か突っ込まれてそれを出される。

「あー、ちょっと高いねー。三十九度あるねー。辰巳君ご両親は? 家にいる?」

 俺は首を横に振る。今日の真美子は日勤だから、夜まで帰ってこない。

「どうする? 連絡して迎えに来てもらう? 一人で帰れないでしょう?」

 俺はまた首を横に振る。

「じゃあどうする? 少し体が楽になるまで寝てる?」

 頷く俺。

「そう。じゃあ先生、これから少し校外に出ないといけないから、おとなしく寝ててね」

 わかった。

 騒々しい教室と違って保健室は静かだ。ぼやけていてわからないけれど全体的に白い。しゃかしゃかとボールペンが紙の上を走るような音がする。心地いい。癒しの音楽みたいだ。その、しゃかしゃかという音を聞いているうちに俺の意識はどんどん落ちて、いつの間にか寝てしまう。夢は見ていない。ざーざーという水の音に導かれるようにして目を開けると、目の前にのどかのドアップがあって俺は驚く。

「あ……」

「起きたね辰巳くん。大丈夫?」

 のどかの掌が俺の額に触れて、離れる。冷たい手。ライトの掌なんて比にならないくらいに冷たくて気持ちがいい。

「熱、まだ高いね」

「……いま、なんじ……」

「一時半。お腹空いてない? 食欲は? 喉は乾いてない?」 

 空いてない。何も食べたくないし喉も乾いていない。

「まだ寝てていいよ……雨の音で起きちゃったんだね。さっき、急に降ってきたの」

 のどかが俺から離れ、窓際に寄った。土砂降りの雨が窓ガラスを叩いている。瞬間、ナイフみたいな雷がぴかっと光り、暗雲を切り裂いた。窓ガラスに触れるのどかの指先がびくっと震える。

「……やだね、今、落ちたねこれ」

 自分の体を抱きしめて守るのどか。俺は完全に熱に侵されていた。頭が朦朧としていた。だから、三十歳ののどかを四歳ののどかと見間違えても仕方がなかった。≪辰巳輝大≫は完全に≪十三歳の鍋島浩之≫になっていた。俺の目には、四歳ののどかが雷に怖がって泣いているようにしか見えなかった。この保健室の白いカーテンも薬品棚も清潔なベッドも何もかも、俺の知っている鍋島家のリビングになっていた。

「……おい、なんで、泣いてるんだよ……」

 のどかは昔から雷が嫌いだった。父さんと母さんは共働きだし家には俺しかいないから、雷が鳴るといつも泣きながら俺のところに走ってきた。部屋にいてもトイレにいてもどこにいても俺の名前を泣き叫びながら探すものだから大変だった。

「……こっちこいよ……大丈夫、こわくないよ……すぐにやむから……」

 小さなのどかは、雷が鳴るたびぎゅっと俺にしがみ付いて泣いていた。前にも後ろにもへばりつくものだから、シャツの前も後ろもズボンでさえものどかの涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった。最低だった。

「……お前、ほんとうになきむしだなぁ……大丈夫、ちゃんとここにいるよ……だいじょうぶ、だから……なくなよ……なぁ……」

 涙で真っ赤になったのどかの目元を指先で拭う。よかった。あのときはこうしてあげられなかったから。ああ、まだ雨が降っている。どこかに落ちたらしい雷の音を聞きながら、俺の意識もまたゆっくり落ちる。四歳ののどかの幻影を抱えたまま。三十歳ののどかがどんな表情をしているのかも知らずに。


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