女の中の女

 鎌倉の中心を少し外れたホテルで熟睡した日奈は2日目のランをやっぱり快晴の朝日の中でスタートさせた。

 今日は漁港が海岸沿いに連なるエリアを走るコースとなる。江ノ電の音がどこを走っていても聞こえる時間帯はなんだか純粋な観光客のような気分になってなんとなく女子高生ぽくスマホで風景を撮影した。


 漁港は保冷庫やその場で簡単なセリも行えるような比較的規模の大きい所が多かった。いかにもという風景の中日奈は好天にも後押しされて順調に距離を稼いでいた。

 だが、午後に入ったあたりから上空に雲がかかりはじめ、空気の匂いが雨の前のそれに変わっていった。


「あ。降ってきたかー」


 ぽっ、ぽっ、と鼻頭と頰をくすぐるように最初の雨粒が当たった後、数秒と置かずに、ざあっ、と一気に本降りになった。


 日奈はポンチョも用意していたのだが、この雨量ではデイパックから取り出して着込むまでに全身がずぶ濡れになってしまう。気温はさほど低くないが、自己体調管理の点から汗で濡れた体をほったらかしにすると叱責されるほどの東城トランスポートでの徹底した指導があったので、日奈は崩れかかった小屋のようなバス停の屋根の下に飛び込んだ。


 すると日奈が走ってきたのとは反対の方向から傘をさして大きな犬をリードで並走させ小走りでバス停に向かってくる女性の姿が見えた。


「こんにちは」


 傘を閉じて髪にかかった水滴をハンカチで拭う女性に日奈は挨拶した。女性がその作業を続けながら、こんにちは、と挨拶し返すと、犬がぶるっと、雫を払い、女性は今度はワンピースにかかったその水滴をハンカチで拭いた。

 美人だな、と彼女の容姿を分析しながら日奈は愛想しようと思い、更に会話を続けた。


「この雨じゃ傘も役に立ちませんもんね」

「犬を濡らしたくなかったから」

「ああ。かわいそうですもんね」

「・・・違うわ」

「え?」

「彼の資産だからよ」


 2人は劣化した樹脂製のベンチに並んで座り軽く自己紹介をした。女性の名前は沙良さら。主婦でアラサーだという。夫は水産品の輸入商社の社長で零細ながら首都圏と関西圏のデパートに販路を持っているという。東南アジアではエビの養殖、あとはフカヒレなどの高級食材を獲る国内外の遠洋漁船に自ら乗船し、水揚げがあるごとに船の上でそのまま買い付け交渉をするのだという。


「夫はわたしと同い年。中学の同級生よ。一年のほとんどを海の上か海外の港で暮らしてるわ」

「沙良さんは寂しくないんですか?」

「さあ。もうそんな感覚忘れちゃったわね。それに社員がたった3人の会社だけど夫をはじめみんな優秀でね。世界を飛び回って大手商社でも食い込めない仕入れルートをたくさん持ってる。寂しさを忘れるぐらいのお金をわたしに送金し続けてくれてるわ。ねえ、日奈。この犬、いくらすると思う?」

「え? いくら、って値段のことですか?」

「このゴールデンレトリバー血統がものすごく良くてね。子犬の時で100万したのよ」

「へえ!」


 興味津々な声を上げてしまい、日奈はすこし恥じた。けれども紗良はそれ以上の話を続けた。


「わたしは血統が悪いのにね。わたしね、いわゆる娼婦だったのよ」

「ショーフ?」

「わかんない・・・まあ、お金を貰ってsexしてた女なのよ」

「え・・・あ・・・」

「ふふ、日奈はいい子ね。ねえ、日奈。sexしたことある?」

「い、いえ・・・ない、です」

「じゃあ、キスは?」

「それも、ない・・・です」

「遅いに越したことないわ」

「え」

「日奈。もしできることならば、あなたの夫になる相手とだけそういうことをなさい」

「・・・すみません、そもそも恋愛をしたことがないんです」

「そう。日奈。わたしの夫は海の上で精神的にも肉体的にも極限のストレスの中で商売をしてるわ。陸地での商売でも気を抜けば根こそぎお金を巻き上げられるようなブローカーたちと命を削るようなドロドロの交渉をしてるわ。だから、女を抱きたくなるのよ、彼は。でも、妻は日本にいる。じゃあ、どうすると思う?」

「・・・不倫、ですか?」

「日奈。不倫、てどういう意味?」

「・・・奥さんを裏切ってをすることですよね」

「裏切る、か。じゃあ、結婚してない人が誰とでもsexするのはいいの?」

「・・・よくない、と思います」

「日奈。わたしがこんなこと言える立場じゃないけど、あなたはこの人としかsexしたくない、って思える男に出会うまでは決してしちゃダメよ。それでね、その男と結婚なさい。もしその男と結婚もできなくて体も結ばれることがないのなら、誰ともせずに一生処女のままで生きなさい」

「でも紗良さんはダンナさんを愛しているんでしょう?」

「トータルでね」

「トータル?」

「もし彼にお金を稼ぎ出す才覚が欠けていたら愛せないわ。彼の性格がもう少しガサツだったらやっぱり愛せないわ。それから彼が家を建ててくれてなかったら、このゴールデンレトリバーを買ってくれていなかったら、やっぱり彼を愛せないわ」

「でもっ! 自分の伴侶がどんなに貧しくなっても、病気になっても、どんなにおじいさんになっても、それでも愛するのが本当の愛じゃないんですかっ!?」

「そうね。じゃあ訊くわ。日奈。あなたの夫がもし不倫をしたら、それでもあなたは愛せるの?」

「う・・・あ・・・わ、たしは・・・」

「わたしは愛せるわ」


 ・・・・・・・・・・・・


 沙良の『わたしは愛せるわ』という言葉で日奈は泣き出してしまっていた。

 萱場を男の中の男と思い、妙子を女の中の女と思っていた。その2人のパターン以外の純粋ではない関係は愛情と認めることができないと思っていた。


 けれども、沙良のたった一言によって脆くも崩れ去る、自分の解釈がその程度のものだったと自戒した。

 信念だと自分で思っていたものは普遍的ではなく偶像を信じるその念という程度のあやふやなものであったと悔いていた。


 自分の膝を抱えるようにして顔を埋めて号泣する日奈の背を沙良はやさしくさすった。


「日奈。ごめんね。あなたを傷つけて泣かせるつもりじゃなかった。ただ、わたしや夫のような人間もまたいるんだということを知っておいて欲しかった。わたしが娼婦になったのは最初は無理矢理だった。でも途中から無理矢理じゃなくなった。わたしの夫はわたしがボロボロの廃人のようになっていた姿を知った上でわたしを妻にしてくれた。夫が実際に異国の地で不倫をしているのかどうかは正直言ってわからないわ。でもね。真っ暗な大海原のど真ん中で、時化て命すらどうなるかわからない恐怖や、えも言われぬ寂しさで自殺しそうな精神状態になった時。近くの港に上陸して女性の柔らかくて温かな肌を抱くことだけが短期的な希望だったとしたら。むしろわたしはその女性に感謝すべきでしょうね」


 沙良は日奈の髪に、すん、とやさしくキスするように口元を当てて囁いた。


「だって、その女性のお陰で彼は生きてわたしの元に帰って来れるんだから」


 気がつくと、雨が上がり、陽光が一筋雲の隙間から差し降りていた。



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