愛し、愛され

フカイ

階段室にて

#1

 高層ビルの階段室を、さほ子と一緒に、とくとくと歩きながら下っている。

 三八階から降りるのだ。一階につき、一度の折り返し。だから都合、七六回の折り返し階段を下りることとなる。

 最初は物珍しさも手伝っていくつか交わしていた会話も、知らずに途切れ、やがて息があがり、会話どころではなくなって行った。

 「エアコンが効いているのがせめてもの救いだね」と、さほ子は言った。

 確かにそうだ。この時期、空調のない屋内で三八階からの階段を下りなどしたら、身体がどうにかなってしまう。

 うん、と博人は答えて、踊り場で一休みする。


 ↑は22、↓は21と壁にプリントされた踊り場。

 ヒールのあるサンダルを履いたさほ子には、いささか酷な行程だ。さほ子は三六階でサンダルを脱ぐことを検討し始め、三四階からは素足で歩いている。白っぽいベージュのストッキングの足の裏は、きっと薄汚れてしまっているだろう。

 「大丈夫?」と、壁にもたれた博人がたずねる。さほ子は鮮やかなワンピースのまま、階段にしゃがみこんだ。

 「平気よ」

 「上等だ」と、博人は答えた。

 黙ってそうしていると、他に何人かの人たちが、この階段室から降りてゆく。ぽつりぽつりと、無口な人々が、地上を目指して歩みを進める。さほ子と博人は壁に寄り、人々のために道を開ける。


 「お盆を過ぎて、赤とんぼが飛ぶようになると」と、しばらく黙っていたさほ子が口を開いた。休憩は、数分を経過していた。「―――日暮れが早くなるのよ」

 「うん」

 のんびり階段を下りながら、もうずいぶん話も途切れていた。

 階段を下っている最中は、あと何階だ、とか、大丈夫、などの話しかしなかったから、そんな風に自然な会話がずいぶん懐かしく感じる。

 「上の子の夏休みの宿題を片付けて、今年も夏が終わるわ」

 と、さほ子は言った。

 「寂しい?」

 「彼に会えなかったからね。ずっと忙しくしてて」

 専業主婦が一体、何に忙しいのだろうと博人は思うのだけれど、そんなことを問い返さないのがルールだろう。

 けれど、言ったさほ子は、チラリと博人を見た。

 その視線を視界の隅で感じながらも、博人はさほ子を見返さなかった。

 さほ子に、気持ちを透かされている気がした。


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