92話 開放の為にあえて溜め込むタイプ

 薄暗い地階の酒場「黒い川獺(かわうそ)亭」には、安い煙草と酒の香りとが充満し、ほろ酔客達のカードを切る音と、銅貨の放つ、なんともいえない、ギラギラとした輝きとが各々のテーブルを低俗的猥雑(わいざつ)色(カラー)に装飾していた。

  

 その店内、最奥に陣取った魔王ドラクロワは、ダスク産の葡萄酒を口に含み、形のよい眉根を寄せていた。

 その葡萄酒は、舌上でどう転がし、味わってみても傑作(マグナム)というには程遠く、もうただただ酸っぱいというだけで、特に芳醇な香りもコクなく、かといってこれまたフルーティーでもなく、誠に残念な味としか形容出来なかった。


 つまり、この店の葡萄酒は駄作も駄作の大外れであった。


 つい先日まで文句なしで堪能した、あのアランの店の葡萄酒"ドラクロワカミラー"とは正しく雲泥の差、月とスッポンであり、ドラクロワはこれには堪(たま)らず、極めて遺憾にして無念の表情となった。


 そこで、すぐさまカミラーに指示を与え、先に店前にて対応した、豊満な給仕の下女を呼び寄せ、どれ程高値でも構わないから、もっとマシなのを持ってくるように言う。


 すると、その若さが頼り・取り柄で、どうにかこうにか危うい所で、何とか美しいという範疇・領域の丘に、ギリギリ指一本を引っかけて、そこへぶら下がるような下女は、少し笑って、ニッとうなずくと、どういう訳か大きく口の開いたガラスの壺みたいな物を下げて直ぐに戻ってきた。


 よくよく話を聞けば、この葡萄酒が口に合わないという、一見(いちげん)客は少なくないらしい。

 だが、この酸(す)い葡萄酒はガラスの壺瓶に入れて一振りするとあら不思議、その味は格段に飲み易くなる、とも言う。


 勿論、これには魔王もカミラーも揃って鼻白んで、そんな馬鹿な事があるかと、手を振ってその提案を鼻で嘲笑(わら)った。


 しかし、若い給仕はそれにもまた微笑んで

 「ウフフ、失礼。こう話しますと皆さん同じ顔、そう、そのようなお顔になられますので、つい。

 ですが、私が一振りさせていただくと、これもまた一様に、直ぐにこの葡萄酒の別の顔に夢中になられますよ。

 では失礼して……」

 と、ドラクロワの眼前の未だ未開封な葡萄酒の瓶。その四本の内の一本を手に取り、掌の上で芋の皮剥きに取り掛かるように、シュルッと回したかと思うと、エプロンのポケットからナイフを取り出し、実に手慣れた感じで器用に開栓し、シャバシャバとガラス瓶へと注ぎ込んだ。


 そしてすかさずそれの首を持ち、自らの顔付近まで掲げるや、テーブルにぶつけんばかりに、一気に下へと降ろした。

 それは、所謂(いわゆる)ラーメンの天空ナンとかよろしく、えらく思い切りと勢いのある一振りであった。


 その結果当然、口広瓶の中で葡萄酒は荒れ狂うように踊り、小さな海の嵐のごとくに白波が舞い、逆巻く赤酒は空気と混ざり合い、テーブルには鮮烈なる葡萄の香りが、乱雑かつ滅茶苦茶に放出された。


 カミラーはピンクの盛り髪を揺らして

 「これ女!こちらに何の断りもなく勝手なことをするでない!

 そんな見苦しいくも不細工な取り繕うような真似をしおって、お前一体どういう了見じゃ!?」

 目の前の燭台蝋燭の灯を吹き消すような、そんな激しい剣幕で吠えた。


 しかし、この給仕女は、カミラーの憤怒の発火を前にしながらも少しもたじろぐことなく、静かに微笑み、手際よくその泡立つ葡萄酒をグラスに注いで、ドラクロワの手元に、ツイと押して来た。


 女の不可思議な所作を静観していた魔王は静かにそれを手にし、サッと口に持っていき、直ぐに干した。

 果たしてこの珍妙なる一手間とは如何なる効果を発揮するのか?


 カミラーは、自らが崇拝・心酔・恋慕する魔王がたちまち眉をひそめ

 「ん?何も変わらんではないか」

 と言うのが聴こえた刹那、この若い給仕女の白い首筋を掴んで締め上げてやろうとばかりに、真珠色の爪を、メギギと伸ばし、童児(こども)を取り上げられし鬼女(うぶめ)もかくやとばかりの恐ろしい形相で、両の手を物騒に構え、魔王の唇が不快の貌(かたち)になるのを待っていた。


 果たして、ドラクロワの薄紫の唇が一瞬だけ口内に全て隠れ、直ぐに再び現れた。


 「ウム、給仕よ。もう用はない。その壺をここへ置いて往(ゆ)け」


 カミラーはまさに信じられないとばかりに驚愕の表情で魔王を見上げた。


 「い、今なんと!?」


 若い給仕は、やはりこの手の反応には慣れたものなのか、至極穏やかな表情で目を伏せつつ、慇懃(いんぎん)に頭を垂れ

 「お代わりのご用命は、いつでもご遠慮なくお申し付け下さいませ」

 と短く述べ、カミラーのピンクの小さな頭をそっと撫でようとしたが「わらわに触るな無礼者!」と、文字通りの牙を剥かれたので、フフッと苦笑して、ぶら下げられた鍋やフライパンが鈍く輝くカウンターの方へと消えた。


 そして今宵のカミラーは、なんとも屈辱的なガラスの壺振り係りを仰せつかったのである。



 さて、そうこうしていると、仕事終わりにエールを一杯やっていた商人達、カードに興じていた農夫らしき者達の姿は次第に消え始め、牧歌的な雰囲気のそれらと入れ替わるようにして、物々しい黒いレザーアーマーの若者達が目立ち始め、その者達が镖(ひょう)の的当て遊戯(ダーツ)をやり出した頃。


 先程の豊満な給仕女は勤めが終わって帰宅したか、同じメイド服ではあるが、吊り目の枯れ木みたいに痩せた、腕はおろか首まで刺青まみれの女がこちらに来て

 「お客さん。そろそろ閉店なんですが」

 と蛇みたいな厚化粧の顔で殆(ほとん)ど擦過音(さっかおん)にしか聴こえない、気味の悪い小声で言って来た。


 ドラクロワは薄暗い酒場店内を、最高級のアメジストのような澄んだ瞳で、ジッと見回し、ガラの悪い若者達が少しも帰る様子を見せず、夜遊びはこれからとばかりに、下卑(げび)た笑いで琥珀色の蒸留酒を舐めているのを見て

 「ん?奴等を見る限り、まだまだ閉店時間ではないようだが?」

 と、さも退屈そうに言った。


 ミイラみたいな刺青女は、ドラクロワの返答を聴くや、吊り目を糸のように細め

 「んなこたぁかんけーねーだろ!?アタシが終わりっつったら終わりなんだよー!」

 と突然ヒステリックにガラガラのダミ声で吠えた。


 自然、ガラス壺を振っていたカミラーの手は止まり、またもや伸びた爪が壺に当たり、カチコチッ、キキィ……と鳴った。

 

 そこへカウンター付近から、恐ろしく襟の高い、あちこちに鋲を打った細身のレザーアーマーを着込み、頭髪のサイドを極端に刈り込んだ、金髪のやさぐれた青年が現れ

 「おい、ルリ。止めねーか。コチラさんはゆっくりしたいっつってんだからよー、自由にさせてやれよ?

 大体テメここの給仕だろ?なんでいつも客に向かってギャーギャー喚くんだよ?

 別に冒険者の一人二人居たって構わねぇだろ?」

 男は革手袋の掌で鉄镖(てつびょう)を弄(もてあそ)びながら、病的に痩せたルリという給仕女の鶏ガラみたいな肩に手を置いた。


 「えー?だって余所者(よそもの)がいるとアンタ達が白けるんじゃないかと思ってさ。

 ま、アンタがそう言うんなら居させてやっても良いけ、」

 

 そう話すピアスまみれのルリの唇を刈り上げ青年が唇で封じた。


 そして、その二人の若い男女はそのまま舌まで絡ませて激しい接吻を交わしたのである。

 

 眉を思い切りひそめ、怪訝な顔そのもののカミラーは、その二つの唇から、どちらからのものか、真っ赤な血液が滲(にじ)み出て、直ぐに唇の脇から溢れ出し、汚ない水溶(みずとき)きケチャップみたいなそれを二人が啜(すす)り合うように見えた。


 だが、一瞬ドラクロワの顔色をうかがって、改めて二人を見直すと、チュパンッ!と音を鳴らして、その穢(けが)らわしくもおぞましい接吻は終わったところであった。


 カミラーは目を凝らしたが、燭台の光に下から照らされた、その若者二人の唇は少しも赤くはなく、ただニヤニヤと厭(いや)らしい形に歪んでいただけであった。


 その金髪の青年はルリの干からびたような身体を抱き、自分の頭のモヒカンモドキを撫で付け、眉の辺りの輪っかピアスを弾きながら

 「な、アンタよ。そこのスゲェ田舎(ださ)い首飾りと鎧のアンタだよ。

 なぁアンタさ。暇こいてるようだったら、俺達とちょいと賭けでもやらねーか?

 なーに、チョッとした小銭位で構わねぇからよ?」

 旅の劇団一座の若頭みたいな、何処と無く胡散臭(うさんくさ)い美男子は、にやけ顔でそうもちかけた。


 ドラクロワはグラスを傾け、音もなくテーブルに置き

 「よかろう。どんな賭けだ?」


 美しい小さな顔を歪ませ、このいかがわしく、無教養で暗愚そうな若者達に嫌悪感を露(あらわ)にしていたカミラーは、その真紅の目を剥いて純白の睫毛(まつげ)をはためかせ

 「ドラクロワ様!?このようなゴロツキ共とお戯(たわむ)れになられるのですか?」

 真摯な面持ちで再議を申し出た。


 だが、ドラクロワは血も凍るような美しい微笑で

 「あぁ。なにせ俺は"暇"だからな」

 と言った。

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