質
穏やかな声に顔を上げると、そこには一人の男性が立っていた。短く切りそろえられた黒髪、笑みの形に弧を描く瞳。冥王よりは小柄な男性で、黒い着流しがとても似合っていた。
『ただの人間には酷なことでしょうに』
柔らかく穏やかな声だったが、冥王に対する非難の色がありありとにじんでいる。男性は理恵子に手を差し出し、立ち上がるのを助けてくれた。
『ふん……これ以上増えてもらっても困るのでな』
『まぁ、確かにそれも一理ありますが。
しかし、もっとほかにも手段はあったでしょうに』
『問答無用で沈めれば良いと?』
『そこまでは言っておりませんよ。ひとつの手段であることは否定しませんが』
自分を取り残して進む会話に、理恵子は居心地の悪さを感じる。ただでさえ突き付けられた事実に思考は停滞しているのに。
『嗚呼、失礼しましたね。私は黄桜といいます。しがない小料理屋の亭主ですが、今回のことで多少なりとお手伝いできるかと思いましてね。
理恵子さんには冥王様より私の方が適任かと』
握られていた掌を優しく包み込まれて、柔らかな笑みと物腰でそう言われる、と。正常な判断ができないままに頷きそうになる。
『……何を企んでおる』
冷たい声が理恵子を現実に引き戻す。冥王の声だ。
『企みなど。そのようなことは決して。
ただ、私は私が心酔する方の願いや意向を叶えたいという一心ですよ』
冥王を振り返り、黄桜はまた笑った。理恵子から死角になっていたため、その笑顔は見えなかったが、きっとあの穏やかな笑顔を浮かべていたのだろう。理恵子はそう思った。
『……ふん……、しかしあやつの欠片のひとつなど拾い上げたところで何になる。
もはや欠片は沈んでいったのだ。遺されたものはまた巡るだけ。
それも
『もちろん、存じておりますとも。しかしもうひとつ、絶対的な
黄桜の言葉に、冥王は口を閉じた。黄桜が何を言いたいのか、冥王はよく解っている。
―《等価交換》
それがこのあたり一帯の世界を形成し、成立させている絶対的なルール。
ましてや眼前にいるのは《到達者》であり、《鬼》でもある彼なのだ。
『女よ、覚えておくがいい』
不意に冥王は理恵子に向き直り、静かに告げた。
『桜の下には鬼が居る。
鬼は願いを叶えるが、その代償は高くつくぞ』
そう言うと冥王は背を向けて歩きだした。もう、理恵子には用がないとでも言わんばかりに。
『さぁ、理恵子さん。参りましょう、此処は貴女が居るべき処ではないのですから』
静かな黄桜の声と、優しい仕草で促され、理恵子は黄桜と共に歩き始めた。
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