91-100


91


顏の曲がった女と顔の曲がっていない男が通りを歩いている。男は画家で女は画題。鼻は額に唇は頬に、まさに名画にふさわしい顏、堂々たるこの顏に、釣合うだけの強い幸福を漲らせて女は闊歩する。女がその幸福で街を曲げる時、画家もまた街で一等幸せな絵描きとなり、二人して曲がった街を歩き続ける。



92


私たちは異国で蟹を食べている。それを見た異国の人々が囁き合う。ご覧、蟹を食べている、蟹を、ああ知らないのだ彼らは、行って教えてやりなさい、人死にのあった水辺で獲れる蟹が一体何を食べて肥ったのかを。だが私たちは知っている。知っていて脚を剥き脳を割り食べている。蟹を食う人もあるのだ。



93


先祖たちが行進するので今日は一日道を休める。先祖たちはおめかししてお喋りしながら道を湖まで歩く。湖で彼らは、自分たちの顔を湖面に映し、皆が同じ顔になっていくのを確認する。子孫の私たちが、この日に道に出ることは、禁じられてはいない。生きているうちから先祖に顔が似ていくだけなので。



94


#秘密を作った。すると魔女がやってきて、「秘密を作ったね」と私の頭を優しく撫で、私のアパートの台所でとてもおいしい赤飯を炊いてまた帰っていった。食卓で一人手を合わせ、魔女の赤飯を食べ終える。それから食器と秘密の死骸を片付ける。前回も、前々回もそうだった。でも赤飯に罪はないのだ。



95


私は自分の不注意のせいで、葬列の一本手前の畦道を歩いている。親族は皆粛々と、畑中の墓まで行進する。喪服の集団が真夏に頭を垂れて歩いていく。陽炎の悪戯で紋付の裾がゆらゆら踊りあがる。私は自分の不注意のせいでまともに実父さえ送れない。頭のおかしい子供だから、それを誰にも惜しまれない。



96


私は愛した女から夫となる男を見に行こうと誘われる。夫となる男はこれから魚を獲りにゆき、それを見事仕留めることで晴れて男になり夫になるのだと女が言う。私は地上の生き物の婚姻のために死ぬ魚を思って憤慨し、それなら魚と結婚すればいいのにと思うが、誰に対してそう思ったのかがわからない。



97


私たちは国営サーカスを観に来た観光客だが、悪名高き野山羊によって、ツアーバスがまるごと化かされてしまった。這々の体でテントに着くと、団員もやっぱり化かされていて、一人残らず観客席に座ってサーカスを今かと待っている。観客をがっかりさせるに忍びなく、私たちは小道具を手に取りはじめる。



98


床に寝転んで子供と遊んでいると家族がやってきて、夏にアスファルトに落ちている蝉に私はそっくりだと言って笑う。その瞬間に思い出す。遠い夏、どこかの神社の境内で、蝉時雨の降る穴の中、おまえは蝉だね、蝉の子供だね、と土に埋められた記憶が確かにあり、穴から抜け出た記憶がない。手が冷える。



99


私は母語から逃れるために、後天的に習得した言語と婚約し翻訳者となった。そうせずにはいられなかった。母語にはどこまでも母親がついてくるので。そんなつまらない理由で肉のない婚約者を選んだのか、愛せるのかと、時折訊かれる。それは本当につまらない理由なのかと、私は話し続け、書き続ける。



100


生前の記憶が考査された結果、私には完璧な屋内プールが与えられた。そこは広く、明るく、天井が高く、静かで、水は適温に保たれており、観覧席が備えられ、塩素の匂いに満ちている。私は水に身を差し入れる。そして限りなく安堵する。魂が透き通るまで、ひとりきりでここで泳いでいていいのだ。

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