秋川さんちのごはん

渚乃雫

スナップエンドウとマヨネーズの話


 ぐうう、と大きな音が彼の空腹を見事に主張している。


「今日は何時頃、夕飯にしようか」

「あら、その前に君にはお昼ご飯が必要だと思うのだけれど」



 時刻は少し曇り空の風の穏やかなお昼時。


「そうだね。とりあえず、僕はいますぐにでも、このぷっくらとしたスナックエンドウたちに黄色の鮮やかな卵をたっぷりふくんだマヨネーズをつけて、口に放り投げたいね」


 そう言った我が家の主の手に摘まれているのは、午前中にお隣のおばあちゃんから頂いた採れたばかりの今が旬のスナップエンドウで、その数は籠に山盛りになるほどにたくさん積まれている。



「あら、まずは、すじ取りを終えておばあちゃんに届けるのが最優先事項でしょう。あとこの山を終えればすじ取りは終わるのだけれど」

「わかってはいるんだけどさ、見てよ、この綺麗な緑色を」


 陽のあたる縁側に座りながら、彼はこれからすじを取るスナップエンドウを太陽の光に当てながら、うっとりとした表情を浮かべる。



 ぷりっ、と弾けて口いっぱいに広がる青々しいみずみずしい春の味。

 そこに重なるまろやかな卵とほんの少しの酢の酸味。


 考えただけでも涎が出そうだよ、と小さく呟いた目の前の彼に小さく吹き出しそうになる。


「このままでも、焼いても美味しいのだけれど、君はマヨネーズ派なのかしら?」

「ううーん、焼いたものも魅力的だけど、今のぼくはマヨネーズをお薦めしたいね」

「そう。それなら、確か卵がまだ冷蔵庫に入っていたと思うのだけれど」

「よし来た!じゃあぼくはお酢とサラダ油を取ってくるよ」


「あら、私に卵と塩を運べと言うの?」


「美晴さんも食べるだろう?新鮮なマヨネーズをつけたスナックエンドウを」

「さっきから気になっているのだけれど、スナップエンドウ、でしょう?スナックのように食べられる品種だけれど、正式名称はスナップエンドウよ。学名でいうと" Pisum sativum var. saccharatum"だけれど」

「なるほどねぇ。僕が間違えたきたことは謝るから、早くこのすじ取りを終わらせてこの子たちを食べたいんだけど、どうかな?」


 そう言いながら、私を美晴さんと呼んだ家主は、手に取ったスナップエンドウの花落ちをポキリと折り、がくまでの平らな側を剥き、今度はがくから花落ちまでの弓なりになっている側を剥いていく。

 初めのころは戸惑っていたスナップエンドウのすじ取りの手つきも、今は手元を見ずにも途中で途切れることなくしたするりとすじ取りが出来るようになったようだ。


 やはりこういうことは経験値を重ねたおばあちゃんのやり方が一番よね、と彼の様子を見ながら、1人小さく頷く。


「僕の話、聞いていたかい?」


 つい別のことを考えていたことが目の前の彼にはバレていたようでほんの少し意地悪な顔をしながら私に笑いかけている。

 そんな彼に、にっこりと笑顔を返しながら口を開く。


「えぇ、聞いていたわ。そうね、けれど、まずはしっかりと下準備をしないと。茹でてからすじを取ると」


「さやが離れて豆が出てしまうんだっけ?」

「そう。そうなると君が望んでいる食感は生まれない、ということになるわね」

「それは困るからね!僕もしっかりと丁寧にすじ取りをするよ!」


 グッ、と空いた手を握りしめながら気合いを入れる彼にまた小さく笑いが溢れる。


「本当に君は、食に対しては手間暇を惜しまないわね」

「昔はそうでも無かったんだけどね。それもこれも美晴さんの作るご飯のおかげだと思うよ」


 にっこりと嬉しそうに笑う彼に、クスクスと思わず笑い声が溢れる。


「本当に、君のような天然は困るわね」

「何の話だい?」

「台詞がキザだった、という話よ。さて、私が運ぶのは卵と塩、で良いのかしら?」

「そうだね。けど、せっかくだから、二人で行こうか。こんな時に美晴さんと離れるのは勿体無いからね」

「………本当に、君のような天然には困るわね」

「それもこれも、たった一人にしかしないけどね」


 そう言って、手を差し出す君はまた一段と楽しそうな表情を浮かべた。



「一通り材料も揃えたし、すじ取りの手を休めてマヨネーズ作りに移行するのはどうかな?」

「あら?忘れてしまったのかしら?マヨネーズのような卵の乳化を利用するものは低温では失敗してしまうと前にも言ったと思うのだけれど」


 ツン、と冷蔵庫から出したばかりのまだひんやりとした温度を保っている卵の殻を突きながら言えば、ボウルを置いた彼が何かに気づいた表情を浮かべる。


「あぁ、そうか!確か、卵黄の中に界面活性剤の役割をするものがあるんだっけ?」

「えぇ。レシチン、という脂質なのだけれど、この子は18度前後で乳化作用が強く、10度以下の低温になると乳化作用が弱まってしまうの」

「そうか!マヨネーズには乳化が重要だから卵を室温にしてから使うんだったね!うん、色々と思い出してきたよ」


 コトリ、と二人で運んできた材料を直射日光の当たらない涼しい場所におろせば、彼は楽しそうな顔をしながら、1人で小さく頷いている。


 私はというと残りのすじ取りに取り掛かろうと先程まで座っていた縁側へと腰をおろし台所付近の楽しそうな彼を見上げた。


「僕の記憶のままにマヨネーズの作り方について話すけど、美晴さん、間違えていたら言ってくれて構わないからね?」

「あら、それはいつもの事でしょう?」


 クスクスと笑いながら言えば、「それもそうだね」と肩を竦めながら彼は笑い、笑顔を浮かべたまま口を開いた。


「えっと、本来、水と油は混ざらないものだけど、油と水、今回は水は酢のことだね。その酢と卵黄を混ぜたものは、卵黄の中にある水とも油とも仲良くできる界面活性剤の役割をするレシチンが準備万端で出番待ちをしてくれている。

 レシチンを男の子、油と酢を女の子として考えても、彼レシチンは、糸を垂らすように少しずつ投入される油の彼女と、酢の彼女の間を取り持つから、乳化作用のおかげで分離、いわゆる彼の取り合いにはならない。

 適度な距離を保ちつつ、関係を壊すことの無い三人がいるおかけで、僕の望んでいる卵と酸味の、まろやかかつ濃厚なマヨネーズが作られる、ということだね!」


 まるで台所が何かの舞台かのように、身振り手振りで、作業工程を想像しながら彼の話は続く。


 その様子を初めの内は面白可笑しく眺めていたけれど、あと少しで終わるスナップエンドウのすじ取りを済ませてしまおうと私は自分の手元へと視線を移した。


「そうね。けれど、その人物紹介でいくと『油の彼女と酢の彼女を引き合わせ、なおかつ彼女ふたりと仲良くする彼レシチン』というあまり宜しくは思えない三角関係が出来上がるのだけれど」


 ポキ、と花落ちを折りながら言う私に、彼は「しまった!」と言う声を零す。


「あぁ、確かにそうだね……いや、でも、考えてみれば、自分と仲の良い友達同士の関係が結ばれ、友達同士も仲良くなるのは好ましいことだよ」


 うんうん、と自分の発言に納得する声にちらりと彼を見やれば、卵の殻をツンツンと突つきながら小さく頷いている。


 そんな様子にまた手元へと視線を戻し、次のスナップエンドウを摘み上げれば、庭先に一人の来訪者が現れる。


 そして、その来訪者は、とてとてと何食わぬ顔で我が家の縁側を訪れて私の足元に収まり、その様子に私はほんの少しだけ口元を緩める。


「あら、それなら私はこのあと、ご近所の彼と仲良く連れ立って買い物に行ってきても文句は無いということね?」

「ん?ちょっと待って。僕達は今、マヨネーズの話をしているのだよね?美晴さん、彼って誰だい?」


 何やら慌てた声を出しながら縁側へと急ぎ足で近づく彼に、「何を焦っているの?」と首を傾げれば「焦るでしょ!」ともう一度慌てた声を返される。


「ねぇ、本当に、彼って、誰だい?」


 ずい、と顔を近づけて動揺した表情を浮かべる彼の心境を無視するように、トン、と縁側の私達の間にあがってきたのは、一匹の茶色と白の縞模様の尻尾の長めの彼。


「今日、一緒にお散歩に行きましょ。よもぎ先輩」

「にゃー」


 そう言って問いかけた私に返事をするかのように鳴き声を出したのはお隣のおばあちゃんに可愛がられているよもぎクン、推定年齢6歳前後。ここの土地での生活は私達よりも早いため、私達は先輩をつけて彼の名を呼んでいる。


「………何だ、よもぎ先輩か!」


「何だとはなんだ」と言わんばかりに、ぴたんとよもぎ先輩の尻尾が彼の腕を叩く。


「あら、一体誰と勘違いをしたのかしら」


 クスクスと笑いながら言った私に、はあぁぁぁ、と大きく息をつきながら彼はがっくりと肩を落とし、そんな彼を見て、よもぎ先輩はゆらゆらとしなやかに尻尾を揺らす。


「僕はてっきり………あぁ、心臓に悪いよ」


 そう言って、はぁ、と彼はまた大きく息を吐いたが今回は安堵の息らしく、少し下がった目尻をまたさらに下げながら彼は小さく笑う。


「あら、君は私のことを信用していないのかしら?」

「そうじゃなくて、僕はいつか、美晴さんが他の誰かに攫われるんじゃないかって、いつだって心配なんだよ」


「何故?」


 目の前にいる彼以外の人間と、こんな風に毎日を過ごすことなど考えたことも無かったのだけれど。

 彼は私が他人のもとに行ってしまうかも知れない私を想像しているらしい。


「私には冬貴以外の人間と過ごす毎日は想像もつかないのだけれど」


 さらさらの彼の前髪に触れながら言えば、まるで、よもぎ先輩の尻尾のように柔らかい彼の髪が揺れる。



「………それほどに美晴さんは魅力的だってことさ」


 前髪に触れた私の指先を掴みながら言った彼の瞳は、ほんの少しの喜びと寂しさで、数時間後に訪れるであろう夕刻の昼と夜を混ぜ合わせたような色をしていた。


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