第2話 オ―ボイスト・フォン・シュピーラー准男爵

 水を打ったようにしんと静かになった場内を、地獄の底から響くような低音の、物憂げで陰鬱な声が響いた。それまで目を伏せていたシノも、思わずその声の主を目で探す。

(あの男……見覚えがある。どこで見かけたのか、しかとは思い出せないが)

 手を後ろ手に縛られ、身動きできない状態で視線を上げ、声の主を確かめたシノは、その真っ白な料紙に墨を一滴落としてにじませたかのような印象的な輝きをもつ瞳を曇らせた。それは、その見覚えがある声の主が、一種独特な雰囲気をまとい、シノの姿を狂おしいほどにオペラグラスを使って見つめていたからである。奴隷市場の中で高い場所にあり、一目で買いたいと思う奴婢たちを見渡せる桟敷席に彼はいた。

「ただいま、オ―ボイスト・フォン・シュピーラー准男爵様よりお申し出がございました。他にどなたかいらっしゃいませんか。購入申し出が他にございませんのなら、この奴隷どもはオ―ボイストさまのもとへ」

 奴隷市場の主人が、少し張り詰めた声で告知する。すると、オ―ボイストと呼ばれた男が、鼻を鳴らして陰鬱な調子で注意をした。

「私は女王だけを買う。他の奴隷に興味はない。誰にでもくれてやれ」

「は……。それでは、シノ・カグラ・トウギは、オ―ボイスト・フォン・シュピーラー様の奴隷としてお買い上げいただきます」

 市場はまたもざわつくが、それを意に介さず、オ―ボイスト・フォン・シュピーラーは席を立った。そして、従者と思しき不気味な若者を連れて扉の向こうに消えた。


 同時に、シノは奴隷商人の手によって、乱暴にさらにきつく縛り上げられると、市場の外へと連れ出されようとした。彼女は必死にあとに残された夫――「美将軍」リュウの方を振り向こうとした。何度せきたてられ、幾度も顔を前へと押し返されようとも。

「リュウ……!わたくしは……」

 シノの瞳にはしずくが盛り上がっていた。気丈で誇り高い彼女は、涙腺をしっかりとゆるめないように顔の筋肉をこわばらせていたが、それでも愛する新婚の夫と新枕も交わさぬままに生き別れになるのはあまりにも酷であり、彼女はなんとか運命にあらがおうとした。

「『割符』を思え。我らはまた会える。必ず」

 リュウは静かに諭した。そして、ぐっと瞠目して新妻の姿を瞳に焼き付けると、そのまま目を伏せて顔をそむけた。


 それが、彼ら夫婦の長い別れの始まりだった。シノは罪人が仕置き場へ引っ立てられるかのように荒々しく連れていかれたが、気丈な彼女は必死で冷たいしずくをこらえた。

 泣いてはいけない。私は、シノ・カグラ・トウギ。誇りを忘れてはならぬ。リュウの妻として、そしてかつて国を統べサガク王国の娘子軍(じょうしぐん)「血煙の乙女たち」を率いた司令官として。弱さなど、見せてはならぬ。

 シノは自分を買い受けた主人、オ―ボイスト・フォン・シュピーラーの元に連れていかれるまで、ついに涙を見せなかった。その姿は、集った「客」――貴族たちの心を少しなりとも打ったのであった。


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