第30話

 遠くへ、遠くへ、遠くへ。


 刃は広がっていく感覚とすさまじい情報の本流に意識を押しつぶされないよう自身を強く保つ。


 さらに深く、もっと深く、どこまでも深く。


 先ほど見つけた『邪神の本』の気配の中から他のものとは違ったものを見つけ出せ。

 それ以外、わかばを見つける方法はない。

 すべての感覚を極限まで駆使してみろ。いまお前がなすべきはそれだけだ。しなければならないことはそれ以外ほかにない。


 どこだ? どこにいる?

 自分の持てるすべてを感覚器官へと注ぎ込んでいく。


 本当に溺れてしまいそうだった。


 この社会はなんと情報に溢れているのだろうか。その多さに愕然とするしかない。よく現代の人間はこんな海に浸かったまま暮らしていけるなと思わざるを得なかった。


 それでも。

 それでもこれだけは絶対にできなくてはならない。しなくてはならない。


 本当に誰かを救いたいと思うのなら。

 本当に誰かを救えるのだと思いたいのなら。

 できなければ絶対に駄目だ。


 隣に住む女の子を引き戻してやるために。

 彼女は壮絶な悪意によって闇の底へと落とされかかっている。


 他者の悪意によって道を踏み外してしまうのは間違いだと質してやるのだ。曲がりなりにもお前は年上だろう。


 これは自己満足にすぎないのかもしれない。それを否定することはいまの刃にはできないだろう。


 だからといって。

 苦しんでいる女の子に手を差し伸べてやることが間違っているとは思えない――


 そして――


『邪神の本』の力が感じられる者の中から少しだけ異質なモノを持つ誰かを見つけ出した。


 その気配が感じられるのはここからそう遠くない場所だ。刃の脚力をもってすれば数分もかからず行くことができる。


 一度探知し、アテをつけられたのなら感覚を先ほどのように拡張する必要はない。

 刃は先ほど探知した人間を標的とする。


 再び身体はどっと重くなり、強い倦怠感と疲労に加え、身体の中で熱核反応が起こっているかのような猛烈な熱に襲われていた。手足も自分のものとは思えないほど重い。脳にもかなり負担がかかっているせいか、視界も霞んでいる。


 だが、そんなものに構ってなどいられない。

 その程度で止まるわけにかいかない。


 重く、異常な疲労感と倦怠感と熱に襲われる身体を奮い立たせ、いまの自分が持てる最高速を出せるようにそのすべてを作り変えていく。


 ここでへたれてしまったら、止まってしまったら、すべてが無に帰してしまう。わかばを救えるのは自分だけなのだ――


 そのとき、こちらの進路を塞ぐように八人の人間が向かってきた。今回は年齢も性別もバラバラだ。近くにいるのを無作為に集めてきたのだろうか。やはり目はどこを見てるのか見当もつかないほど虚ろなのに、足取りだけはしっかりとしている。『邪神の本』によって操られた人間たちだ。その手には金属バットや角材、ナイフといった凶器が握られており、明らかに刃に対して害意を持っていることが理解できた。


 時間稼ぎか――刃はどこか引っかかるものを感じながらもそう直感した。


 前にいた主婦らしき女性と制服を着た男子高校生が言葉にならない呻き声のようなものをあげながら襲いかかってきた。その動きはどこか獣じみていて、人間離れしている。間違いなく操っている『邪神の本』が彼らに無理矢理そうさせているようだ。少しなら筋肉痛で動けなくなる程度で済むだろうが、長時間やらせていたらなんらかの障害が残ってしまうかもしれない。早く倒す必要がある。


 しかし、そんな無理をさせたところで素人は素人でしかないし、無理な動きを多少させた程度で刃のことをどうにかできるわけがなかった。襲いかかってきた主婦と男子高校生の攻撃を最低限の動作で避けると同時に顎を素早く打ち抜いて一撃で二人を昏倒させる。


 いま刃がいる場所は狭い裏道だ。だからどれだけ人数を集めても一斉に襲いかかることはできない。


 次に襲いかかってきたのはスーツを着た五十くらいのサラリーマンと大学生くらいの若い男だった。その二人はどこか顔だちが似ている。もしかしたら親子なのかもしれない。だからといって容赦するつもりはまったくなかった。この行動が彼らの意思ではないといっても、彼らが刃のことを邪魔しにきているのは明らかだ。そういった相手に必要ない容赦などする必要はどこにもない。そんなことしていては命取りになる。無論、彼らも被害者なのは確かだからよほどのことがない限り殺そうとは思わないが。


 サラリーマン親子も先ほどの二人と同様に動きが獣じみた人間離れしたものだった。人間の身体では構造的にできないような無理な動きをさせて手に持った凶器を振りかぶり、人間の言葉とは思えない叫び声をあげながら襲いかかってくる。


 刃はサラリーマンには鳩尾にその手を打ち込み、大学生には手刀で延髄に衝撃を与えて昏倒させた。


 倒れた四人を踏み潰しながら近づいてくるのは大学生と思われる女性四人組だった。その手には年頃の女性には似つかわしくない凶器が握られている。四人は虚ろな目をしたままじりじりと刃に近づいてくる。年頃の女の子が人間離れした素っとん狂な動きをしながら、人間の言葉とは思えない奇怪な叫び声をあげているのを見るのはなんとも複雑な心境だった。このときの記憶が彼女たちに残っていなければいいなと刃は思う。


 角材を持った一人目の攻撃を避けると同時に、女子学生の顎を打ち抜いた。顎を激しく揺さぶられた彼女は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


 二人目は大振りのサバイバルナイフを脇に構えて突撃してくる。獣じみた叫び声を上げて、獣じみた動きでその巨大な刃を刃の身体に突き立てようと真っ直ぐに向かってくる。巨大なナイフをまず蹴り落とした女子学生の身体を流すように動かして背後を取り、手刀で延髄に一撃を加える。彼女も簡単に倒れて動かなくなった。


 残りの二人はまとめて襲いかかってきた。戦略もなにもない。ただ目の前にいる敵を排除するためにそれぞれ一度に襲いかかってきただけだった。


 そんな目茶苦茶な攻撃をするしかない彼女たちを的確な攻撃をして刃は昏倒させた。


 地面に倒れた彼らに見向きもせず刃は走り出す。


 全員、命には別条はないはずだ。そのうち目が覚めるだろうし、放っておいても問題ないだろう。もう温かくなってきているから凍死する心配もない。無茶な動きをさせていたから、そのあたりの影響はあるかもしれないが、その後遺症が一生残ることはないはずだ。


 彼らのような被害者を生み出さないためにも『邪神の本』を破壊しなくてはならない。

 そのために、一番困っているわかばを助けるのだ――


 走る。

 刃はあらゆる場所を道として、その身体の持つすべてを持ってわかばのもとへと向かっていく。


 駆けろ。

 もっと速く。

 さらに速く。


 身体に負担がかかる感覚拡張をしたせいか、いつも通りに身体を動かせていない。

 疲れた。

 もう休んでしまいたいと心の底から思う。


 だが――ここで止まるわけにはいかない。


 なんとしてもあの娘を止めなければ――止められなければ、未だに積み上がり続けている後悔がさらに重なるだろう。


 それは刃にとって決定的な敗北になるだろう。

 それは、かつて自己陶酔に溺れていただけと知ってしまったときと同じくらい重いものだ。


 それに耐えられる保証はない。

 それに耐えられるとも思えない。

 指針刃という人間はそれほど強くない。


 耐えられたとしても、その決定的な敗北は刃にとって深い傷となって、癒えることなく死ぬまで残ってしまう。

 ……そんなものはごめんだ。

 だから、この身体が焼き切れることになろうとも止まるわけにはいかない。


「……藤咲さん」

『……なんでしょう。どうかしましたか?』


 刃の呼びかけに加奈子はすぐに応答した。


「僕に誰かを救えるだろうか?」


 我ながら本当に馬鹿な質問だと思った。こんなこと誰かに訊いてどうするというのだろう。しかし、訊かずにはいられなかったのも事実だった。


『当たり前じゃないですか』


 加奈子は電話越しのせいか、いつもとは違って抑揚を感じる声だった。なにを馬鹿なことを言っているのかと言いたげなものである。


「その根拠は?」

『勘です』

 馬鹿馬鹿しいことこのうえないが、何故か信用できる答えであった。


『指針さんは少しばかり自分に自信を持たなすぎです。はっきり言わせてもらうと少しだけイラつきます。それだけの力を持っているのになにを言っているのかと思いますよ。自分に対する信頼の一つや二つないと社会じゃやっていけないと思います』

「……世間的には僕はただの無職のクズなんだけどなあ」

『私はそう思いません。何年か組織に所属して働いてきましたが、ぶん殴ってやろうかと思うような人間なんて腐るほどいました。よくそれでいままで生きてこれたなお前って言いたくなるような人間なんてものに世代なんて関係ない。割とどこにでもいるんです、そういうの。私にはその手のどうしようもない人たちと指針さんが同じとは思えませんし、思ってもいません。だから自分に自信を持ってください』


 その言葉は、指針刃の感情を激しく揺さぶるものだった。電話でなかったらみっともなく大泣きしていたかもしれない。情けないことこのうえないが、事実だから仕方ない。


「……ありがとう」


 それ以外、ろくなことが言えなかった自分の語彙のなさが恨めしい。


『ところで、随分と息が荒れているようですが大丈夫ですか?』

「……大丈夫」

『――そうですか。なら私はそれ以上なにも言いません。お気をつけて。あなたの勝利を願っています。またなにかあれば遠慮なくどうぞ』


 通話状態を維持したまま、会話をそこで止める。

 ――ああ。


 加奈子に言われた言葉で、心が折れそうなほど疲れていたのが嘘みたいだった。彼女の言葉は仕事相手に言うただのお世辞にすぎなかったのかもしれない。もしくは指針刃を効率よく利用するために方便だったのもしれない。それでも構わないと思う。どうせこの身は誰かに使われる以外にたいして用途はないのだから。


 でも、先ほどの言葉はそうではない気がする。

 加奈子のあの言葉は本心から出てきたものだという確信すら持っていた。

 弱くて自己否定的で自虐的な刃を励ます以外にはなにもない純粋な言葉。

 それを思うと本当に心から救われたような気がする。

 まさか自分にこんなことを言ってくれる相手が出てくるなんて思ってもいなかった。


 加奈子がやってきてからまだ三日と経っていないのに、ずっと前から縁が続いている深い仲であったように思えてくる。

 本当に扱いやすい。ちょっと褒められただけこれなんだから。実にちょろいと自分でも思う。豚もおだてりゃ木を登るというが、自分ならば空だって飛べそうだ。


 いや。

 嬉しくなるのはいい。

 いい気分になるのだって構わない。

 だが、浮かれるのは駄目だ。


 いまはまだなすべきことがなにも終わってないということを忘れるな。

 いまの刃がやるべきことは、『邪神の本』の悪意にさらされ、危機に瀕しているわかばを助けることだ。

 加奈子の言葉で多少救われた気がしていても、これができなかったのなら結局なにも変わらない。


 先ほど特定した彼女の居場所を探知する。


 特定の対象だけを選んでやれば、急激な体力消耗を起こすことはない。彼女らしい気配に向かってその感覚を広げていく。


 どくん、と刃の心臓のあたりに不整脈を起こしたかのような衝撃が走った。

 ……彼女がなにかをやったらしい。

 間に合わなかったか――と愕然としかけたところで、彼女に近づいてきた誰かが逃げていくのが感じられた。


 まだだ。

 まだ間に合う。

 彼女は決定的な行為には及んでいない。


 しかし、彼女が自分の意思で近づいてきた者を傷つけてしまったことは疑いようもない事実である。


 あの娘はもう限界だ。

 早くしなければ。

 時間はわずかだ。


 ……もう次はない。

 再び刃の中に焦りが生まれ始める。


 だが、ここで焦る刃をあざ笑うかのようにして姿を現したのは歳も年齢もばらばらの男女。刃が向かう方向を塞ぐようにしてこちらに近づいてくる。当然その手に握られているのは簡単に手に入るが、殺傷能力は高い様々な凶器。目はどこを見ているのかまったくわからない。『邪神の本』に操られた者たちだ。


 何故、邪神の本は邪魔をしているのか。やはりなにかが引っかかる。

 そこらの人間を操って襲わせても、刃のことを倒せないのは『邪神の本』も理解しているはずだ。

 当然、百人が一度に襲いかかってきたらどうなるかわからないが、十人以下の人間に武器を持たせて送り込んだところではどうにかなるわけがない。


 ……なにか狙いがあるのか?

 それともわかばに接触されるのは困るのだろうか?


 なにか引っかかっているが、なにが引っかかっているのかわからない。それが非常に不愉快で気がかりだ。

 わかばがいるのはもうすぐそこなのに。

 時間だって残り少ないのに。

 刃の中に感覚拡張を使ったときとはまったく別物の熱が湧き上がってくる。


「ああもう! 面倒臭えなあ! 邪魔するんじゃねえよ!」


 刃は満身創痍になりかけている自らを奮い立たせるためにそう叫び声をあげて、襲撃してきた五人に向かって突撃した。

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