横尾くんは走る、春の終わりと
タタタン、タタタン、タタタタタン、タン、タンタタタッタ、タッタターン。
憎いくらいの晴天に軽やかに響くあの音楽。
ついにやってきた運動会当日。
私は緊張で軽く吐き気を覚えながら、頭に巻かれた黄色のハチマキを汗でじっとりと濡らしていた。
すでに時間は正午を回って、午後の部に突入している。
そして次の種目はクラス対抗リレー。
下の学年から順番に行われていくので、まず最初は一年生からだ。
「たしかメグの妹って一年だよね? 何組なの?」
体育委員として朝から学校中を飛び回っている美咲がどさりと横に座ってくる。
私の倍は動いているはずなのに顔つやはかなりよく、水筒をごくごくと飲む様はまさにアスリートといった感じだった。
しかし私の妹の静のクラスを教えると、美咲は残念そうな顔をする。
私たち五組は黄組だが、静の八組は白組だからだ。
「なんだぁ。じゃあ、今回は悪いけどメグの妹のことあんまり応援できないね」
私も美咲にそうだね、応援できないね、と返す。
今日は両親も運動会を観に来ているので、静の応援はそちらの二人に任せよう。
「お、始まったね」
すると早速、一年生のクラス対抗リレーが始まったようだ。
それはつまり私の出番も近づいてきているという事とイコール。
まだ椅子に座っているのに息が上がってきた。
「もしかして、メグの妹ってあれ? 鬼速くない?」
白いハチマキを巻いた少女が、他の女子生徒をごぼう抜きしているのが見える。
私の妹は陸上部に所属していて、しかも短距離をやっている。
昔から私とは違って運動神経がよかったけれど、中学に入って磨きがかかっているような気がした。
というか何か私の周り運動得意な人多くない? ちょっとへこんできた。
「うわぁ、一年生は八組がトップかぁ。これはちょっとヤバいかも」
あっという間に一年生の番が終わり、次は二年生の番だ。
いよいよ出番が近づいてきた。なんだかすでに泣きそう。
なんで私はあんなにお昼ご飯をしっかり食べてしまったんだろう。
今誰かに腹パンされたら、確実に胃の内容物が飛び出るはずだ。
「うーん、二年も微妙だねぇ。これは本当にうちらが頑張らないと」
二年生のクラス対抗リレーも、私たちと同じ黄色のハンカチは最前列を走っていない。
そしてとうとう次が出番ということで、周りのクラスメイト達も椅子から立ち上がり、整列の準備を始めた。
「あー、やっぱ二年もダメかぁ。……よし! メグ! 行くよ! うちらで後輩の分も挽回するよ!」
私の肩をぱん、と美咲は軽く叩くと体育委員の役目を果たすためにクラスの皆に声をかけに行ってしまった。
もう逃げられない。
私を嘲笑うかのように燦燦と照りつける太陽を睨みつけながら、私も走順に従って皆の列に混じる。
「やけに顔色が悪いじゃないか。いつものふてぶてしい顔はどうしたんだい?」
すると背後から体操着姿の少年がからかうような調子で声をかけてくる。
それは私たちのクラスの最終走者を務める横尾くんだ。
緊張で卒倒しそうな私とは違って、彼はいつもとまったく同じように無駄に余裕をかましていた。
「そんなに心配することはない。君が派手に転んでバトンを落として単独最下位の戦犯になったとしても、このクラスで君を責める人はいないさ。案外みんな優しい性格をしているからね。唯一怒りそうな人間が体育委員に一人いるが、幸い君は彼女と非常に親しい。許してくれるはずだ。だから安心して転ぶといい」
べつに転ばないし。
なぜか私が転倒する前提で横尾くんはぺらぺらと上機嫌に喋る。
相変わらず気遣いのできない人だ。
そんなんだから彼女できないんだよ。
普段より神経質で傷つきやすくなっている私は横尾くんを小さな針でちょっとさしてみる。
そうするだけでだいぶ気分がましになった。
「か、彼女ができないのは関係ないだろう!? だ、だいたい、僕は彼女がつくれないんじゃない、つくらないだけだ!」
はいはい、そうですね。
若干精神的に回復してきた私は、横尾くんのよくわからない言い訳を聞き流す。
そうこうしている間に、私たち三年生のクラス対抗リレーが始まった。
凄まじい歓声と応援の声に身体がビブラートされ、私は青春の渦に否応なしに巻き込まれる。
「ほお? あのじゃじゃ馬女、中々やるじゃないか。大口を叩くだけはあるな」
黄色のバトンが美咲の下に渡り、長い足を活かした力強いストライドで駆け抜けていく。
集団で団子になっているところから抜け出し、美咲は暫定トップに躍り出て、そのまま次の走者にバトンを託した。
うわぁ。これもしかして、もしかしちゃう?
私はここで最悪のパターンが目前に迫って来ている予感を覚えた。
それは私のところまでトップで回ってくるということだ。
「意外に僕たちのクラスは運動神経の良い奴が揃っていたんだな。このままいけば、特に僕が頑張らなくても一位を取れそうだ」
美咲には悪いが、私の番までトップではできれば回ってこないで欲しかった。
なぜならトップの状態で私が走ったら、それは間違いなく醜態を晒すことになる。
抜かれてもあまり目立たない下位で本当は走りたかった。
「うーん、でも段々と辻村がつくった貯金がなくなってきたな。これは終盤はせりそうだぞ」
最悪だ。
どんどんと加速度的に迫る私の番が近づくにつれ、一時は大きく差があった私たちのクラスに他のクラスが追いつきそうになっている。
これはまずい。かなりまずい。
こんなギリギリの接戦に私とかいうポンコツを送り込むなんて。
せっかく横尾くんを弄って癒されたメンタルが再び急速に萎れていくのが分かった。
「次、君だぞ」
そして私の前の人がいなくなり、とうとう私が走る番が来てしまった。
横尾くんの下を離れ、レーンの端に立つ。
吹きつける風が、やけに冷たく感じる。
周囲の音が妙に遠くに聞こえ、私は何度も手汗を体育着のズボンで拭く。
「行けー! メグー!」
鼓膜に響く、美咲の絶叫。
荒い息遣いと共に、私の下へクラスメイトの男子が駆け寄って来て、黄色のバトンを乱暴に手渡してくる。
あ、走らなきゃ。
まるで今初めて自分がリレーを走らなくてはいけない事を知ったかのように、慌てて足を動かし始める。
呼吸の仕方も忘れたまま、私は無我夢中で駆ける。
靴紐はちゃんと結んでたっけ。
バトンって右手に持つんだっけ、左手に持つんだっけ。
走り終わった後はどうすればいいんだっけ。
様々な心配がとりとめなく頭の中に浮かんでは消える。
すると急に、私の前に知らない女子生徒が現れ、そのままぐんぐんと先へ行ってしまう。
あ、抜かれた。
自分がクラスの順位を一つ下げたと思った次の瞬間、また違う背中が目の前に増える。
また抜かれた。これまでのトップだったのに、ほんの数秒で二つも順位を下げてしまった。
視界が滲む。
雨も降っていないのに、目の下が濡れているのが分かる。
私の前で、二人の女子生徒がアンカーにバトンを渡すが見える。
ごめん。みんな。
やっとグラウンドを半周した私は、やたらと重く感じるバトンをアンカーに渡す。
もうすでに私の掌には何も残っていないのに、その重みはまだ残り続けていた。
「――ナイスラン。たしかに受け取った」
しかし、そんな惨めさで顔を上げられない私に、柔らかくどこまでも優しい声がかかる。
すっと、心に圧し掛かっていた重みが消える。
顔を上げれば、もうそこには誰もいない。
私からのバトンを受け取った人は、ずっとずっと先にいた。
「いいぞぉー! 横尾ぉー! おらぁー! 男みせろぉー!」
熱狂がどっと勢いを増す。
気づけばもう私のクラスのアンカーは半周を走り終えていて、知らない間に順位も二位に上げている。
各クラスの最終走者だけはグラウンドを一周しなくてはならない。
黄色のハチマキが靡く。
最後の直線。二人の男子生徒が並ぶ。
私の心が鳴る。
自分が走っていた時よりもよっぽど強く、速く、鳴り響く。
頑張れー!
気づけば私は横尾くんのフルネームを絶叫していた。
そしてその瞬間、黄色のハチマキを巻いた横尾くんが先頭に抜き出る。
そのままの勢いで、一気にゴールテープまで駆け抜け、爆発的な歓声が青空を満たす。
「やった! やった! 勝った! 勝った! 一位だ! 一位!」
さすがに疲れたのか、両膝に手を吐いて息を整える横尾くんの下に、普段は彼を遠巻きに見るだけのクラスメイトが殺到している。
美咲はなぜか横尾くんのハチマキを奪って、ぶんぶんと振り回している。
私はなぜかまた目頭が熱くなって、思わず涙を流してしまう。
でもそれはさっきみたいな、重く心を錆びつかせる冷たい涙じゃない。
どれだけ流しても構わないと思えるほど、晴れやかで暖かい涙。
目元を手で拭って横尾くんの方を見てみれば、いつものあの憎たらしいドヤ顔を浮かべて私の方に手を突き出していた。
春が終わり、夏がやってくる。
また一つ季節が変わっていく中で、私も手を突き出し返す。きっとそれは彼のいうところのふてぶてしい顔をしながら。
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