空との狭間

九十九緑

行き場のないこの

 ああ、人生ってつまらない。


 行き場のない静かな怒りを孕んだこの感情。こんなことを考えるのはもう何度目になるだろうか。ここ最近気づけばこのことばかりが脳裏を過ぎる。隕石が落ちたり、宇宙人が攻めてくることもない。ありきたりの平凡な日常。寝ぼけ眼を擦り嫌々起きる朝。興味のない授業を聞き流す昼。ぼんやりとスマホの画面を眺めて寝そべる夜。代わり映えのしない毎日が流れ続ける。つまらない。


 アスファルトの舗道にはジリジリと太陽が照りつけ、耳にはやけに煩い蝉の声が飛び込んでくる。汗が吹き出るそんな暑苦しい夏の日に僕は小さな旅に出た。このつまらない日常を打破できると信じて。


 僕は此処にはない何かを探していた。漠然としたその「何か」を僕は心底求めていた。このありふれた日常を一瞬で覆すような「何か」。僕はそんなものを心のどこかで夢見ていたのかもしれない。


 果たしてこれを旅と言っていいのかは分からない。ただ僕にとってのそれは間違いなく「旅」だった。


 夏休みに入ってからずっと放っておいた自転車に跨り、錆び付いたチェーンを甲高く鳴らしながら、僕は宛もなく街を彷徨う。野良猫のムーと戯れ、暑さのせいで渇いた喉を自販機で買ったジュースで潤し、友達と出くわしてくだらない話をする。担任が車で傍を通り過ぎた時は、何も悪いことはしていないのにも拘らず罪悪感に苛まれ、どうしようかと焦ってしまった。幸運にも向こうは僕に気づいてないようでほっと胸を撫で下ろした。

 とにかく僕は心を無にして、ひたすらに自転車を漕いだ。漕いだ。漕ぎまくった。向かう場所も目的も何もない。満たされない心が赴くままに僕はただ風を切り続けた。こんなことをしたところで僕の求める「何か」は見つかるはずがないことは心の底では分かっていた。しかしそれを頑なに認めようとしない僕のひねくれた心が止まることを許しはしなかった。


 闇雲に自転車を漕いでいるうちに海岸沿いの道に出た。気づけば随分と日が傾いている。水平線にゆっくりと沈んでいく夕陽が僕の頬をオレンジ色に染め上げる。


 何も言わずに家を飛び出してきた。心配しているであろう両親の顔が時折自転車を漕ぐ僕の脳裏にちらついた。けれども僕は日がすっかり暮れてしまったとしても、家に帰ろうという気は起きなかった。このまま何も成し得ずに帰ってしまったら、明日からの日々が変わるようなことは決してない。そう強く思ったからだ。帰らない。そう決意を固めたところで僕は自転車を降りて砂浜に座り込んだ。一日中ほぼ休むことなく自転車を漕ぎ続けていたせいで、疲れ切ってしまった両足を柔らかく真っ白な砂の上に放り出す。些かの痺れを感じたものの、それすらも快感に感じられるほどだった。自分が思うよりも僕の体は疲れていたのかもしれない。

 水平線をぼうっと眺めた。波が静かに音を立ててゆっくりと押し寄せてくる。今日はほとんど風もなかったからか海は優しく穏やかな表情を僕に見せる。波の音がささやかな安らぎを僕の心に与えてくれた。だんだんと心地よくなってきて、僕はそっと瞼を閉じた。潮の香りが鼻腔をくすぐる。至福の時だ。


 いつの間にか僕は眠りについてしまっていた。起きた頃にはもう日は完全に沈み、月が空高く昇っていた。日中が快晴だったからだろうか。満天の星空である。一等星たちが眩い輝きを放っている。なんて美しいのだろうか。この幻想的でいて非日常的な光景を目にした僕は、人生に対する悲観などはもはやどうでもよくなっていた。あんなに鬱になっていた自分が馬鹿らしくさえ感じる。自ら命を絶つ人はずっとあの暗い感情に追われ続けるのだろうか。きっと、何にもないのにそこに虚構を生み出して人生に絶望してしまうんだ。自分が世界で一番不幸な気がしてしまっているんだ。暗くて狭い空間に閉じ込められて、独りきりな気がして。誰も手を差し伸べてくれず、もがいて、苦しんで、逃れたくて、そしてどうしようもなくなって、きっと自ら死ぬことを選んでしまうんだ。


 ふと、周りを見渡した。常闇の中に真っ黒な海がどこまでも広がるだけである。もちろん周りには何もない。手を伸ばしても、そこにはただ無限の闇が在るだけだった。何故だか僕は無性に寂しさに襲われて、仄暗い気持ちが込み上げてきた。人生とは一体何なのだろう。僕は何のために生きているのだろう。消えかけていたはずの感情がまた燻り始めた。


 にゃー、と聞き慣れた猫の声が小さく聞こえた。振り向くとそこにはムーがいた。暗くてよく見えなかったが僕は確信を持って言える。あれはムーだ。暗かったとしてもそれを見間違えるほどの浅い付き合いではない。しかしそうすると何かがおかしい。ムーは家の近所の野良猫だ。此処まで来るのに僕はどれだけ自転車を漕いだかわからない。少なくとも猫の行動範囲の域は越えている。そもそもだが、さっきまで猫の気配などこれっぽっちも感じていなかった。そうそれはまるで、そこの無から突然現れたかのように。ムーは僕の方を一瞥するとゆっくりと歩き始めた。僕は考えるのを辞めてただムーを追いかけた。どこへ向かっているのかも分からない。それでもひたすら追いかけた。


 僕の背丈よりもうんと高いとても大きな岩の前でムーは歩みを止めた。どのくらいの時間を歩いていたのだろうか。辺りは少しずつ明るくなってきていた。辿り着いた先にあったものがあまりにも平凡で僕は気を落とした。何を期待していたのだろうか。ただムーは歩いていただけなのに。平凡な自分の人生への刺激をなぜムーに背負わせていたのか。無責任な自分が嫌になる。やっぱり人生ってこんなものなのか。つまらない。やめてしまいたい。現実に引き戻されたせいか、忘れていた疲労感に唐突に襲われた。それにより僕の思考は負の連鎖に陥ってしまっていた。僕はしばらく俯いて暗い感情に飲み込まれていた。


 ふと顔を上げた。次の瞬間、僕は息が止まりそうになった。 この世のものとは思えない美しいものに突然出逢ってしまったから。流れるような黒い髪、透き通るような白い肌、すらりとした細い脚、憂いを帯びた大きな瞳、控えめな紅色の唇。僕はこの人と出逢うために生まれてきたのかもしれない。そう思えるほどの衝撃だった。一言で表すとするならまさに運命。大袈裟かもしれないけれど、きっとこの感情は僕にしか分からないだろう。僕は初めて運命の存在を認めた。行き場のないこの気持ち。理解するのにそう時間はかからなかった。僕は彼女に恋をした。一目惚れだった。言葉では表現し得ない幸福感に身を包まれ、僕の胸はその甘く切ない風で満たされた。僕は咄嗟に一歩を踏み出した。


 あのっ、そう口にした瞬間、彼女はふわりと優しく微笑んだ。


 ふと、バタフライエフェクト、そんな言葉が僕の脳内をよぎった。


 気がつけばムーはもういなくなっていた。


 未だにあの夏の日の出来事は謎に溢れたままだ。


 不思議なこともあるもんだ、と隣で眠る愛しい彼女の長い黒髪を僕はそっと撫でた。

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