Beggar and a little girl(原作:歌田うた さん)
雲一つない澄んだ夜空に、一筋の流れ星が落ちた。
一人の男が、駅の前で物乞いをしている。銀色のボウルを自分の少し先に置き、ただ膝立ちになっている。
その視線の先はどこを見ているのか分からない。
その瞳には何が映っているのか。
すべてを吸い込んでしまうような深い闇の色をした瞳は、何を見つめ、何を思うのか。
行き交う人々は男に気付かない。
目に映っているはずなのに、何事もなかったかのように誰もが男の前を通り過ぎていく。
あの深い闇の色をした瞳にも気付くことなく。
一人の少女が男を見た。
雪のような色をしたコートを羽織り、首には桜色のマフラーをしている。
少女は男の前に立った。
「おじさん、何をしているの?」
男は、何も答えない。少女に気付いていないかのように、ただ、どこか遠くを見つめている。
少女は自分を見てくれるのを待っていた。けれど、男の瞳に少女が映ることはなく、仕方なく置いてあった銀のボウルに50円玉を入れて去って行った。
次の日も、男はまた駅の前にいた。
昨日と同じ格好で、同じ目をしている。銀のボウルは空の状態で置かれ、人々は相変わらず男に気付かず通り過ぎて行く。
そこにまた、昨日の少女が現れた。
今日も雪のようなコートに桜色のマフラーをしている。
「おじさん、何してるの?」
男の視線が初めて動いた。闇のようなその瞳に白い少女が映っている。
「……」
だが、男は何も答えなかった。
「おじさん、一人なの?」
少女の問いかけに、男は静かに首を縦に動かした。
そして、再び遠くを見つめる。
「わたしも一人だよ」
その言葉には視線が動くことなく、少女は置いてあった銀のボウルに50円玉を入れて去って行った。
また次の日も、男は駅の前にいた。
同じ格好で、同じ目をしたまま。
今夜も人々は男に気付かず通り過ぎて行く。
そこにまた、同じ格好の少女が現れた。
「おじさん」
少女が男に声を掛けると、その声は白く蒸発して消えて行った。
今夜はかなり冷え込んでいて、雪になるかもしれないという。男は少女の声に呼応するように視線をゆっくりと上げた。
「これ、どうぞ」
少女が冷たくなった手で銀のボウルへ500円玉を入れた。男は無言のままそれを見つめている。嬉しそうな顔も悲しそうな顔もせず、ただ見つめている。
「お金、嬉しくないの?」
その言葉に、男は再び少女を見た。男の表情には感情が表れない。ただその瞳は、少女が知っている誰よりも印象的な瞳だった。
人々は男に気付かず通り過ぎていったが、少女はその瞳に気付いてしまった。もう心が吸い込まれているのかもしれない。
その視線の先に何があるのか知りたかった。
目の前に、粉雪が落ちてきた。
空を見上げると、曇天の夜空から雪が降っている。
「ねえ、おじさん。雪だよ。おうちに帰ろうよ」
少女が男に話しかけても、言葉は返ってこない。その代わりに男は立ち上がり、駅を背にして歩き始めた。少女も男の後をついて歩いて行く。
行き交う人々は二人に気付かない。
目に映っているはずなのに、ごく当たり前のように誰もが二人の横を通り過ぎていく。
まるで少女のコートが二人を雪に同化させてしまったかのように。
男はやがてコンビニに入って行った。少女は少し離れたところで男の様子を見つめた。自分が渡したお金で何か買っているのだろうか。
一分も経たないうちに、男は出てきた。その手には一本の黒い傘が握られている。男は少女の方を見ると、傘を開いて歩きだした。
「どこに行くの?」
少女が男に話しかけても、言葉は返ってこない。静かに、何かを見つめたまま歩いていく。少女は男の隣に並んで歩いた。
粉雪が舞う中、黒い傘の下で二人が並んで歩く。
やがて、雪が降り積もった路地裏へ入っていった。
廃墟となった雑居ビル。
男は鍵の壊れた扉から非常階段を上がっていく。
少女はもう語り掛けることをせず、黙って後をついていく。
屋上に出ると、雪はやんでいた。
視線の先にあるものは、瞳と同じ色の夜空なのか。
おもむろに傘を開いて――と見えたのも束の間、手摺を乗り越え深い闇の中へ舞い上がった。
「あっ!」
雲一つない澄んだ夜空に、一筋の流れ星が落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます