第19話 境界線の向こう側

 まるで蓋をするように空から突風が吹き下ろしていた。


 ここは、あらしやまの頂上にある展望台の屋上だ。

 西洋の城にある見張り台を手で押し潰したような円塔の最上階。せっかく頂上まで登った訳だし、どうせなら最も高い場所まで行こうと思い、他の一年A組の面々と一緒にそこへ足を踏み入れたとおは、真っ青な夏空を見上げたまま呆然と立ち尽くしてしまった。


「まさか……ドラ、ゴン?」


 尾まで含めれば全長十五メートルはありそうな翼竜だ。

 蝙蝠の羽を何倍も頑丈にした膜質の両翼に、爬虫類のような硬いうろこに覆われた白く強靱な肉体。長い首の先にある流線型のあぎとは人間など軽く粉砕できそうなほど鋭くて、真っ赤な双眸は燃え盛る太陽を凝縮したみたいに禍々しい。

 剣と魔法が出てくるファンタジー小説のワンシーンとしか思えない光景。悠然と大空に君臨する怪物が、目の前に実在していると認識するまでにかなりの時間を要した。


「どうした遠江、空を見て固まって?」

「霧沢君……あれが、見えないの?」

「あれ?」


 隣に立っているきりさわなおは空を見上げて眉間に皺を寄せた。磨かれた水晶のように冴え冴えとした黒い瞳にはハッキリと困惑の色が浮かんでいる。


「(本当に見えていない? いや霧沢君だけじゃなくて、他の人達も気付いていないの? じゃあ、あれは一体……?)」


 全幅十メートルはある両翼で烈風を撒き散らし、殺意に滾った瞳で生徒達を睥睨する怪物。

 いっそ仮想現実VRの技術を駆使した遊園地の新アトラクションを体験していると言われた方がまだ信じられる。いや、そうとでも解釈しなければ、全米を泣かせるハリウッド超大作のCGにしか見えない幻想生物を脳が受け入れてくれそうにない。感情が認識に追いついた途端、正気を失って逃げ出してしまう自信すらあった。


 だが、風前の灯だった余裕は、一瞬で消し飛ぶ事になる。


 ギロリ、と。

 蛇と同じく瞳孔が縦に開いた赤い双眸で、一直線に睨み付けられたのだ。


「――、」


 喉が、干上がる。


 たった一度、目線があっただけ。

 でも、それだけで充分。

 恐怖も、困惑も、何も残らない。

 あらゆる感情が真っ白に塗り潰されて、感覚すらも消失する。


『アァ――――――ア―――――――ァ―――――――ア――――――ッッッ!!』


 大きくあぎとを開いた白い翼竜から衝撃波のような咆吼が迸る。

 鼓膜では拾えない震動なのか、普通の人間には聞こえない音なのか、その雄叫びは理解不能なノイズとして脳を直接揺さぶった。


 白い怪物は鋭利に生えた牙を見せて獰猛に笑うと、獲物を見つけた猛禽類のように大空を旋回し始める。白銀の鱗で反射した夏の陽射しがキラリと視界をいた。大きな黒い影が石床の上を疾走するも、現実と掛け離れた光景過ぎて実感が湧いてこない。


 ただ、一つだけ予感があった。

 そして、それは最悪の形で実現する。


 だんっっっ!! と。

 全長十五メートルの巨体が、翼を折り畳んだ状態で突っ込んでくる。


 まるで悪趣味な投げ槍だった。

 見た目だけなら、海鳥が魚を捕獲するために水面に突っ込む様子に似ている。ただし総重量が三トンを超えていれば話は別だ。中型トラックがロケットブースターを装着して空から激突してくるような状況。武器や装備を整えてモンスターを狩猟するゲームとは訳が違った。


 だが、小さな隕石が円塔の屋上に着弾する事はなかった。


 人影。

 何者かが遠江の前に割って入り、勢い良く両腕を突き出す。


 正面衝突。

 凄まじい轟音が炸裂した。


 足場にしている石造りの円塔がこまれになって砕けないか本気に心配になる程の衝撃が走り抜ける。直後に吹き荒れるのは、思わず両腕で顔を守りたくなる突風。激突だけでは処理できなかった運動エネルギーが同心円状に拡散したのだ。撒き散らされた余波だけで多くの生徒がその場に転倒していく。


「(……防いだ? あの規格外の一撃を?)」


 紫色の界力光ラクスを放つ大きな背中には、見覚えがあった。


 いまりょう

 風紀委員会副委員長で、第一校区の代表候補生。


 ならば、使っているのはとうじゅつようさいよろい』で、中でも強力な防御方法である専用術式『とりで』だろう。

 突き出した両手の前方に何重もの半透明な城壁を展開。白竜は噛み砕こうとして、人間の頭くらいなら果実と同じく粉々にできそうな顎力を遺憾なく発揮するも、思うように攻め切れない。時折、鍔迫り合いをしているみたいに紫色の燐光が飛び散るだけだった。


 だが。


「……くっ!!」


 ミシミシミシミシ!! と石材を敷き詰めた屋上が軋んだ。盾である『とりで』はまだ健在だが、このまま拮抗が続くと先に足場が砕けてしまいかねない。円塔が崩落すれば、白竜とは別の脅威が逃げ遅れた生徒達に降りかかる事になる。


班長ボス!!」


 長身痩躯の男子生徒が、黒く歪な拳銃を構えた。


 閃光。

 二条の黄色い弾丸が、一直線に空気をく。


 一発は白竜の鋭く尖った頭部を掠めて飛んでいく。だが、もう一発は辛うじて膜質の翼に命中した。僅かだが、白竜の意識が長身の男子生徒へと逸れる。


「……っ!!」


 その瞬間、今津が動く。

 左手だけに『とりで』の制御を移し、空いた右手を背中まで回す。弓を引くにも似た胸筋を張る構え。拳の周りだけ透明な炎が生まれたみたいに空気が揺らめいている。それが何の『構え』であるか、遠江は瞬時に記憶から察した。


 専用術式『ほう』。

 等身大の岩くらいなら余裕で木っ端微塵にできる暴風の槍が、硬く握った右拳と共に放たれる。


 金持ちが所有するクルーザー程の巨体が、軽く二十メートルは吹っ飛んだ。

 業務用扇風機に巻き上げられた紙飛行機みたいに錐揉み状で青空へ舞い上がる。だが致命傷には至らない。何度か羽ばたくだけで体勢を立て直してしまう。


 烈風にはためくライトブラウンの長髪を押さえていると、目の前の今津が振り返って口を開いた。


?」

「……はい。ってことは、今津先輩にも?」

「ああ、薄らとシルエットだけだがな……あれ、どこかで面識が?」

「いえ、先輩は何かと有名人ですから」


 理由は不明だが、白い怪物の見え方には若干の差異があるらしい。


 表情を引き締めた今津は、大空で旋回を続ける白竜を見上げて唇を噛んだ。親しみやすい気さくな顔付きだが、凄むように両眼に力を入れているとなかなかの迫力がある。非常事態でも慌てないどっしりとした物腰は、組織を引っ張るだけのカリスマ性を感じさせた。


 激突の衝撃を跳ぶ事で逃れた霧沢が、慌てた様子でこちらに走ってくる。


「班長! 一体、何が……?」

「例のドラゴンが現れた !直也、風紀委員会の腕章を巻いておけ! 戦闘なしじゃ切り抜けられそうにない!!」

「……っ!? 了解!」

「まずは生徒の避難だ、すでに始めている僚と氷華に加わって安全に誘導を——」

「……すいません班長、早乙女さおとめ先生から電話が!」


 血相を変えた霧沢が、慌てて携帯端末を耳に当てる。


「霧沢です……はい、はい……え? そ、それはっ!?」


 顔を青くして、こちらを見詰めてくる。


「遠江、片羽の連絡先は知っているよな?」

「ええ」

「じゃあ、片羽達と別れてから何か連絡はあったか? 別行動を始めてもう一時間近く経つけど、何も音沙汰がないって……」


 ハッとした。同時に、霧沢が何を言おうとしているのか察する。携帯端末を確認してみるも、かたばねしょうからメッセージは入っていない。


「まさか、あの二人に何かあったの!?」

「あくまで可能性の話だ。電話の相手は俺達の顧問だけど……正直、俺には言ってる事が理解できなかった。詳しい説明はできそうにないけど、二人が面倒な事に巻き込まれているかもしれない。悪いが遠江、今すぐ二人の無事を確認してくれないか?」

「分かった!」


 携帯端末を操作して、友人に着信を入れる。

 数回のコール音。

 祈るような気持ちで待っていると、唐突に呼出音が途切れた。


「翔子! 今どこにいるの!! 二人とも無事!?」

『マ、マキちゃん? どうしたの、声を荒げて』

「足挫いてるんだよね!? 遭難してるとか、動けなくなってるとかない!?」

『私達は大丈夫だよ、予定通りに進んでるし』

「そう……良かったわ」


 安堵に胸を撫で下ろし、心配そうにこちらを見ていた霧沢にアイコンタクトで無事を伝える。表情を和らげた同級生クラスメイトは、すぐさま真剣な光を切れ長の両目に浮かべて今津の方へ向き直った。特班の顧問教師から掛かってきた電話の内容でも伝えているのだろう。


『それで、マキちゃん達はもう山頂に着いたの?』

「う、うん……でも」

『でも?』

「その、なんて説明したらいいんだろ……」


 頭上で悠然と旋回を続ける白い怪物を睨んで口ごもる。ドラゴンが現れて襲われている、なんて伝えても信じてくれるとは思えない。


『……もしかして、そっちで何かあった? 例えば、


 思わず、息を飲んだ。


『やっぱり、そうなんだね』

「どうして分かったの……? まさか、翔子が天風島に着いてからずっと調べていた事って」

『うん、そうだよ。嫌な予感の正体。そのドラゴンは、天風島に仕掛けられた「未知の界力術」を利用してび出されたエネルギーの塊なの。現代の知識では解明できないはずの術式に干渉できる何者かによってね』

「未知の界力術って、あの都市伝説の……?」

『そう。昨日の博物館と花火の途中、それに今回を踏まえて考えるなら、犯人は生徒の中にいるんじゃないかな? 術式に不正アクセスされた時の防衛機能としてドラゴンが発生するみたいだし、「結界」に直接干渉した私以外を狙った理由にも説明が付く』


 さらりとトンデモない事を告げられた気もするが、片羽の口調が冷静なせいでイマイチ異常事態の実感が持てなかった。

 それでも、猛烈な速度でパズルが組み上がっていく感覚だけは伝わってきた。きっと片羽の頭の中では事件の全貌が明らかになりつつあるのだろう。


『でも、どうしてこんな事を? 「宝物」が欲しいなら回りくどい手を使わずに直接攻め込んでくるはずだし……二度も白竜をび出す理由はない。もしかして、何かを試している? 明確な根拠がないから、決定的な行動に出られないとか? だとしたら時間との戦いになるのか、敵は準備が整うまでは動けないんだから』

「……、」

『マキちゃん、私とタカ君は天風島の問題を解決するために動いてるの。だから、このまま二人であらしやまを抜けて、やるべき事をやるよ。この状態を打破するにはそれしかないから』

「だ、大丈夫なの? よく分からないけど、それって危険なんじゃ……」

『問題ないよ、だって私の隣にはタカ君がいるから』


 きっぱり、と。

 恥ずかしがる訳でもなく、照れる訳でもなく、片羽は言い切った。


 信頼。

 どんな刃物を使っても切れる事のない繋がり。

 その言葉は、何時間にも亘って論理的に積み上げられた理屈よりも強い説得力を伴って心に響いた。


『マキちゃんもさ、こんな時だし霧沢君を頼ってみたら?』

「……そうね」


 本音を言えば、少しだけ躊躇いはあった。


「うん、それもいいかもしれない」


 でも、その言葉は思ったよりもすんなりと口にできた。

 天風島に来るまでの自分なら、きっと違う答えを出していただろう。知らないから、分からないから、踏み込む事を恐れて目を逸らして、都合の良い偏見に逃げていたはずだ。


「ねぇ翔子、お願いがあるの」


 だから、この言葉も予想外。

 湧き上がってきた想いを乗せて、楽しげに告げた。


「これが終わったらさ、私の話を聞いて欲しいんだ。今まで話せなかった事とか、悩んでる事とか、全部聞いて欲しい。翔子なら、受け入れてくれる気がするから」

『いいの、私が聞いても?』

「うん。だって、翔子とは『対等』でいたいから』

『分かった。なら代わりにさ、私の話も聞いてよ。下を向いて、怯えて、一人じゃ何もできなかった女の子と、どんな時でも隣にいてくれた私の大好きな人の話を』

「分かった、楽しみにしておくね」


 通話を終えて携帯端末の黒い画面から顔を上げると、小柄な少女がタタタと小走りで近付いてくる姿が視界に入ってきた。

 初等部の生徒に見えるほど小柄な少女だ。青雪色アリスブルーのショートカットに、雪の結晶を模した髪飾り。見覚えがあった。天風島の研修中に何度も一方的に突っかかってきたあの少女だ。


「班長、展望台にいた生徒の避難が完了しました。美鈴先輩が塔の外で下山の誘導をしています」

「了解、早くて助かるよ」

「あと、直也先輩にお届け物です!」


 そう言うと、小柄な女子生徒は竹刀を入れる長細い巾着袋を霧沢に手渡した。


「先輩の剣です、そろそろ必要になると思ったので!」

「ありがとう氷華、武器をどうしようか悩んでいた所だったんだ」

「いえいえ! 氷華は先輩の『一番の』パートナーですから!」


 ふん、と胸を張って、得意げな眼差しをこちらに向けてきた。どうやら厄介な勘違いは継続中らしい。


「遠江も早く下に降りるんだ、もうすぐここは戦場になる」

「……いえ、私も残るわ」

「駄目だ、だって遠江は――」

「一般生徒だから許可なく界力術が使えないって言うんでしょ、それくらい分かってる。私が伝えたいのは、そんな事じゃない」


 一呼吸置いてから、表情を引き締めた。

 困惑に揺らぐ不器用な同類の黒い瞳を、真正面から覗き込む。


「私にも、協力させて」


『自分の世界』の境界線を乗り越える。

 無意識の内に生み出していた一線を取っ払い、一気に踏み込んでいく。


「私にはあのドラゴンがハッキリえる。あの怪物が何を見ていて、どんな動きをするのか伝える事ができる。なら、戦えないとしてもここに残る意味はあるはずよ。私と霧沢君は対等なんだし、これくらいは問題ないないでしょ?」

「だけど、それじゃあ遠江が危険過ぎる」

「私なら大丈夫よ。戦えないとしても、自分の身を守るくらいはできるから」

「かもしれないけど……!」

「別にいいんじゃないか?」

 

 上空で旋回を続けるドラゴンを見詰めたまま、今津稜護が言葉を差し込んだ。


「むしろオレ達からすれば有り難い申し出だよ。相手は神話とかとぎばなしに出てきてもおかしくない怪物で、しかも普通に姿を見る事ができないんだ。が多いに越した事はない。それに彼女も腕に覚えがあるみたいだし」

「班長まで……」


 溜息をついた霧沢は、顔を上げて、いつもの冴え冴えとした眼光を向けてくる。


「分かった、なら遠江も協力してくれ」

「了解!」

「でも、危なくなったらすぐに逃げるんだぞ。悪いが助けに入るだけの余裕はない」

「大丈夫よ、分かってるから。そういう霧沢君こそ、どうやってドラゴンと戦うつもりなの? 今津先輩には薄らとえてるみたいだけど、霧沢君には全く見えないんでしょ?」

「それこそ大丈夫だ、策はある」


 まるで鞘から剣を引き抜くように、巾着袋から一振りの刀を取り出す。


 訓練刀――模擬戦などで使う刃の付いていない剣だ。

 柄と刀身が一体化したみたいに見える鍔のない長刀。ずっしりとした硬い質感は、金属と言うよりも石材に近いか。漆を塗った木造工芸品のような艶を持つ刀身は、夜を型に入れて取り出したと思わせる程に漆黒だ。


「いい機会だ、世界に喧嘩を売った男の力を見せてやるよ」


 今津の隣に並び立った霧沢が、両手で訓練刀を構えた。


 そして。

 黒い嵐が吹き荒れる。

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