サイバー攻撃は終わらない~2020年東京五輪~
暁烏雫月
0. 序章
プロローグ
クーラーの効いた部屋でパソコンと向き合う者がいた。その両手はピアノを奏でるようにリズミカルにキーボードを叩いていく。
琥珀色の双眸が睨みつけるは液晶画面のとある表示。そこには黒地のウインドウが映し出されており、男性がキーボードを打つ度にそれに呼応して意味深な記号やアルファベットが並ぶ。
ある程度作業を終えると、男性はスマートフォンを取り出して耳にあてた。受話口からは、相手の声が聞こえている。液晶画面を睨みつけた男性は、受話口から聞こえる声にため息で応じた。
「駄目です。セキュリティシステムのハッキングを試してみましたが、まだまだ穴があります。このセキュリティシステムでは、サイバー攻撃を防げません」
「なんだって! これでもかなり強化したんスけど……このペースでオリンピックに間に合うと思う?」
「『間に合うか』じゃなく、間に合わせるんですよ。幸い、まだ時間はあります。セキュリティシステムの強化に全力を注ぎましょう」
時は二〇二〇年の春。首都東京では、夏に開催される東京オリンピックに向けて大きな動きがあった。オリンピック開催に向け、サイバーテロ対策チームが結成。サイバー犯罪捜査官や内閣サイバーセキュリティセンター、さらには民間企業まで。多くのエンジニアが集められ、サイバーテロ対策を講じている。
二〇二〇年までに、オリンピック開催に向け、「サイバーコロッセオ」と呼ばれるものが行われてきた。攻撃と防御双方の実践的演習を繰り返すことでサイバーテロに備えるという試みだ。こちらは大会関連組織のセキュリティ関係者向けであったが、今回結成されたサイバーテロ対策チームは事が起きた時に備えてサイバー犯罪捜査官なども参加している。
「晃一さん。俺、もう限界っス。セキュリティ対策のためにって、もう何ヶ月も遊んでないっス。合コンしたいし女の子に会いたいし、遊びてー!」
スピーカーから聞こえてきた悲痛な叫びに、晃一と呼ばれた男性は思わずスマホから耳を遠ざける。オリンピック開催に向けた動きが本格化した今、関係者には休む時間などほとんどない。例え休めたとしても日頃の疲れを取るのが精一杯で、趣味や好きなことに費やす余裕などない。それは晃一とて同じである。
見慣れた液晶画面を前にして、晃一は再び溜息を吐いた。サイバーテロ対策チームに参加するにあたり、晃一はセキュリティ強化も担当している。電話越しの相手は晃一がセキュリティシステム構築の指導をしている相手であり、臨時に作られたチームでは立場上は晃一の上司にあたる。
「おいおい。セキュリティ関係者なんだから、頑張れよ。オリンピックが終われば休めるって。な?」
「もう無理っスよ。オリンピックに向けて頑張るから、気力回復のためにも合コンに行きたいっス。女の子とデートしてー!」
「わかったわかった。今日のところは俺がセキュリティシステムを強化しておくよ。だから、休め。そんで明日からまた休む間もなく働くんだ。これなら頑張れるか?」
「はい! 晃一さん、神みたいだ。ありがとうございます! そんじゃキャバクラ行ってくるんで、また明日!」
電話越しの相手の言動は関係者らしからぬもの。仕事に行き詰まったのか、忙しさに耐えきれなくなったのか。女遊びのことばかりが頭を支配しているらしい。目を閉じれば、晃一の脳裏には通話相手の遊び歩く姿が浮かび上がる。
「ったく。あと一ヶ月もないんだから、しっかりしてくれよ。これで当日何かあったら怒るぞ」
一方的に切れた通話。通話終了を知らせるビジートーンがやけに耳障りだ。スマホをズボンのポケットにしまうと、晃一は再びパソコンと向き合ってキーボードの上に指を乗せた。セキュリティシステムの強化を自ら名乗り出た以上、納得のいくものを作らなければならない。
眠気でボーッとする頭を必死に働かせ、セキュリティシステム構築のためのプログラムを練る。先程のハッキングで、現在のセキュリティの穴は見つかっている。それをどう強化するか。強化した上で、緊急時に備えてどのような細工を施すか。
頭の中で構築したプログラムを、キーボードを叩いてパソコンに反映させていく。カタカタとリズミカルに音を立て、プログラムを打ち込んでいく。液晶画面上のデジタル時計は「二〇時二〇分」を示していた。
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