カフェ・セラピスト ~悪魔と私とパニック障害~
橘 瑞樹
第1話 四月二十九日 卯の花曇
その日はいつも通りの日常のはずだった。
電車で通勤し、朝霞の駅で降り、曇った空の下をバスで職場に向かう。
職場に着けば、いつも通りの光景。
デスクの脇には図面と資料が積み上がり、隣の席からは同じように書類の山が積まれ、私の机の方へと領空侵犯をしている。
私、黒崎アイリの仕事は自動車メーカーの研究員だ。
カーエアコンの設計をして早四年。
地味で、ユーザーの気にも留められない地味で地味でしょうがない部署である。
本当は内装デザインに関わる仕事に就きたかったが、配属とは残酷なものだ。
何度も提出した異動願は上に行っているのかいないのか、今年も異動の話は全く無かった。
「おはようございます」
40代の主任研究員の安達さんや石元さんはいつも朝早く、八時には出社している。
いくらフレックスとはいえ、私も十時に出社しようとは考えない。
一人、先輩社員で鵜田さんという男性だけはいつも寝癖も直さず十時近くにならないと出社してこないけれど。
腕時計を見れば朝九時ジャスト。
これもいつも通りのことだった。
「おはよう、アイリちゃん。なんか顔色悪いようだけど大丈夫?」
「え?顔色、ですか。特に何か体調が悪い訳じゃないですよ?」
そういうと、安達さんは首をかしげながら「そうかなあ」と言った。
正直言うと睡眠時間はここのところ足りていない。
仕事が納期間際で忙しく、残業ばかりの日々だったからだ。
きっとそれでお肌がくすんでいるんだろう。
自席に着いた私はパソコンを二台立ち上げる。一つは設計用。もう一つはノートパソコン。
通勤の途中で買ってきたカフェオレのボトルを開けながら、起動のひと時を待つ。
「そういえば昨日の図面、修正してくれた?」
石元さんにそう言われた私は少し焦る。
「すみません、まだ手を付けられてなくて・・・・・・」
「ああ、いいよいいよ。午前中に修正して出してくれたら」
「はい、すみません」
立ち上がったパソコンに向かい、件の図面データを呼び出す。
(―――最優先でやっておこう)
私の仕事は3D-CADでモデルデータを作成し、レイアウトを考え、それを図面に落とすのが主な仕事だ。
性能実験などの仕事もあるが、まだ実験機が出来上がってないのでそれも無い。
今は性能一号機を作るためのレイアウトがほぼ終わり、出図ラッシュのタイミングだった。
そして昨日の夜、プロッターで出力した図面には赤字の修正が入っている。
五枚ある図面を広げ、私は唸る。
(―――二時間、くらいかな)
修正箇所が多く、朱塗りのようになった図面を見比べて私は溜息を吐く。
どうしてもこの図面作成が私は苦手だった。
モデルデータを作るのも、エンジンルーム内のレイアウトを考えるのも楽しい。
だが、この図面作成だけはいただけない。
やっていて眠くなる作業だからだ。
けれども、この図面が無ければ、部品を手配することは出来ない。
(―――気合よ、気合!)
まだ少し眠い自分を奮い立たせて、私は図面修正の作業へと没頭していったのだった。
「おはよーございます」
「おはようございます」
時計を見れば十時を回ったところ。
鵜田さんが出社してきた。
またいつものように寝癖を付けて。
黒ぶち眼鏡にぼさぼさの髪。
背は私よりも低く、おそらく165cmくらいなのだろう。
私が173cmもあるせいで、いつも私は彼の頭頂部を見るような形になってしまう。
少し、髪が薄くなってきているのを本人も多分気付いているだろうけれど。
出来るだけそれを見ないようにして、私は鵜田さんに尋ねる。
「今日の会議室、取っておきましたけど二時間でいいんですよね?」
彼は盛大にあくびをしながら振り向いて、
「うん、そうー。コーヒーは八人分ね」
「分かりました」
内線で所内のスターバックスに八人分のコーヒーの注文をして、私は再度図面修正へと取り掛かる。
五枚中三枚の修正が終わっていた。
(―――そろそろプロッターで一旦出図しちゃおう)
そう思い、画面の印刷ボタンを押して立ち上がった時だった。
ドクン。
一際大きな鼓動が聞こえた気がする。
(え、なに・・・・・・?)
ドクンドクンドクンドクン。
まるで心臓が爆発する一歩手前のような、そんな拍動。
心臓が痛い。
それと同時に一気に噴き出した冷や汗と、全身に走った痺れ。
(なに?なんなのっ)
立っていられずその場に崩れ落ちた私は、死の恐怖でいっぱいだった。
「ちょっ、黒崎さん?!」
(こわいこわいこわいこわい。わたしこのまましんじゃうの?)
「だれかっ、担架!!あと救急車!!」
「ひどい汗だ。おーい、意識はあるかいっ」
(しんじゃう、このまましんじゃう)
恐怖と苦しさから過呼吸を起こした私は、ヒューヒューと喉を鳴らして、
「ごめん、なさ・・・・・・っごめんな、さい」
―――ごめんなさい。
安達さん、石元さん、鵜田さん。
私、納期守れそうにないです。
そこで私の意識は途切れたのだった。
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