第19話 N香の胃痛

 お節介おばさんを卒業して、数週間が経つ。


 ズボンの破れた青年を見かけて以来、N香は、これまで日常的に行っていたお節介発言をしなくなっていた。

 やればできるもんだ。

 人にはそれぞれの人生がある。

 私が気まぐれで首を突っ込んだところで、所詮、私の自己満足に過ぎないのだ。


 そんなことより、自分の人生について、良く考えてみることにした。


 女子大英文学部を卒業して、某印刷会社に就職。

 営業部員の時に結婚。

 三年目に旦那の浮気が発覚して、なんだかんだで離婚。

 秘書課や企画部を経験し、現在は営業事務にいる。

 この会社で、ずっと、働いてきた。

 残業は多いが、やり甲斐はある。

 今の仕事に不満はない。

 好きな人もいない。

 これといって、打ち込める趣味もない。


 ない。


 私の人生、このまんまでいいのかな……。

 何か、やりたかったこと、なかったっけ?

 あ……また胃が痛くなってきた。


 電車の吊り革を握る手に、思わず力が入る。

 言いたいことを我慢しているせいか、最近ストレスが溜まりがちで、前日の晩からついに胃が痛くなってきた。

 ハトでもいいから、相手してほしいのだけど、あれからヤツらは、顔を見せない。

 一応内科で胃薬を処方してもらおう。

 市販の薬を試してみてもいいのだが、N香は病院が嫌いではない。初期症状のうちに専門医に診てもらう方が、早く完治する、ような気がするのだ。

 実際のところ、医者でもだれでもいいから話相手になってほしい、というのが本音かもしれないが。


 そういう訳で今日も、バツイチ独身四十六歳のN香は、名声会W総合病院に向かうところだった。


 胃の痛みに顔をしかめながら電車に揺られていると、ふと一枚の中吊り広告に目が止まった。

 Z大学、インターナショナルヴィレッジ?

 広告の文句によれば、大学構内に建設された全寮制の施設らしい。


 ふーん。


 施設内には、あらゆる国籍の留学生と日本人が生活でき、異文化コミュニケーションがとれるような共用スペースが随所に設けられ、交流イベントも定期的に行われるらしい。

 イベントは本校学生に限らず参加可能。

 

 ふむふむ、なかなか面白そうではないか。

 

 N香は学生時代、一年間アメリカ留学の経験があり、英語は日常生活レベルなら、当時は難なく話せた。


 国際交流かぁ。

 若いころ憧れたっけ、海外若人協力隊。

 ちょっとハードルが高すぎたけど。


 ……これ、きたかも。


 不敵な笑みを浮かべながら、病院へ向かう。

 心なしか、胃の痛みも治まりつつある。

 いつもの様に正面玄関を通り抜けて、1階奥の外来受付へ行こうとしたそのとき。


 玄関にいくつか置かれたソファから一人の老婦人が立ち上がり、血相変えてこっちへ向かってきた。


「おじょうちゃん、大変よぉ」 


 カイロのおじさんからお叱りを受けたときに話しかけてくれた、あのときのおばあさんではないか。

 四十六歳になって、おじょうちゃんと呼ばれる事に、恥ずかしさと嬉しさが相混じりつつも、

「あ、先日はどうも! ……どうか、しましたか?」

 老婦人は

「あれ、あれ」

 と言って玄関ホール中央を指さした。

「あれ?」

 N香が目をやると、見覚えのあるシルエットの紳士が、ひとり玄関ホールにいた。

「あ!」

 何を隠そう、そこに居たのは、かねかねカイロおじさんだった。

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