仮想地球3754 法改正で現実に追い付く事を諦めた世界
30. 消えた、法の埒外者
イルセは仮想世界3754に迷い込みました。
はい。わたしが光りました。
創造主が与えた名前の通り。
仮想世界の空気を読んで、『ここは、人が法改正を諦めた仮想世界です』とイルセに教えました。
『だから、早目に帰る事をお勧めします』
と、付け加えた上で。
「疲れたから、あきらめちゃったの?」
と、聞かれました。
なんと回答すればいいでしょうか?
確かに、法改正を繰り返しても、どんどん次の現実がやってきて、法律は複雑怪奇になります。一般的な人間が、理解することすら放棄する程に。
シンプルに、率直に答えるのがいいでしょう。
『そうです。相手の足が速すぎるので、追いつくことをあきらめたみたいです』
そう説明したら。
「えー。カメさんだって、ウサギさんを追いかけて、かけっこに勝ったんでしょー?」
童話「ウサギとカメ」では、確かにそうです。
ウサギが寝てくれていたから。
コツコツと進んだカメが勝つことができた。
しかし、現実世界は、ウサギのように休んではくれない。
『足の速いウサギが休もうともしないので、カメは諦めるしかなかったのです』
と回答したら。
「えー? ウサギはカメさんじゃないよね?」
『質問の意味がよくわかりません』
「どうして、ウサギさんが休まないって、カメさんが分かるの?」
『それは……』
現実が停滞することはありえない……という常識。
その常識そのものに、イルセは疑問を持ったようでした。
仮想地球へとダイブする毎に、記憶が消されてしまうイルセ。
彼女は、ある意味、凝り固まった常識から自由になれる存在のようでした。
それが、
世界の忖度を出来てしまう、
◆
「おい! だれだ! こんな子供を現場に連れてきた奴は!」
茶色のトレンチコートを着たトットリ警部が怒鳴りました。
誰も名乗りを上げません。
現場では、警察の服を来た男性がたくさん、指紋採取やらなんやらの作業をしています。みなトットリ警部の顔を一瞬だけ見て、「すみません、知りません」と首をかしげ、あるいは会釈をして、自身の作業に戻っています。
「殺人現場に子供を連れてきて。トラウマにでもなったらどうするつもりだ!」
と、トットリ警部は怒鳴りました。
早くこの世界の立法事実データを取得して、イルセにはこの世界から帰って欲しい。わたしは、少しだけこの仮想世界に干渉しました。
『ばかうけ』のような形状の顔をした、女性探偵。
彼女の脳へと向けて、わたしこと忖度リングから、
こうヘルプしてもらいました。
「この女の子はあたしの助手なの。幼女だけど、事件の本質を突く名探偵なんだ。人呼んで、名探偵イルセ」
……はい。神の世界の知識を、少し使わせていただきました。
トットリ警部はうなりました。
「ほう……名探偵か。ならばここに居て当然だな」
警部が素直なタイプで、とても助かりました。
◆
この仮想地球の、今居るマンションで。
とある人間が殺されたのでした。
密室状態で発見されたその男には、鈍器で頭を殴られた跡が。
部屋には、大量の麻薬。
そして、血のついた箱型パソコン。
「撲殺だな……パソコンの角で」
トットリ警部が言いました。
警察から派遣されたヒロアキ解析官が、パソコンの解析を試みました。
「……だめです。これをどう使ったのか、全く痕跡が見つかりません」
メガネにスーツの男、ヒロアキ解析官は、首を横に振りました。
「明らかに、犯人が、被害者の頭を殴るのに使っているだろう?」
おまえはバカか、とでも言いたげな表情で、トットリ警部。
「いえ、そうではなく。被害者が、この計算機を使って何をしていたかが、です」
「ふん、技術版は、すぐに泣き言だな」
トットリ警部はトレンチコートをひるがえし、倒れている被害者の方を指さしました。
「殺された被害者がこの部屋で、大量の
トットリ警部は、証拠ではなく勘に基づいて、そう断定しました。しかし――。
「それを、立証するための証拠は、入手不可能なのです」
メガネの男、ヒロアキ解析官が言いました。
「このパソコンはシンクライアント。証拠になるようなデータが、残っていません」
シンクライアントは、ハードディスクやSSDなどの記憶装置を持たず、データを外部に持たせる思想の、計算機器のことです。
「そんなバカな。無いということはないだろう? どこかに必ず痕跡があるはずだ」
「あることはあるのですが……」
ヒロアキ解析官は口ごもりました。
「なんだ? 言いたいことがあるならはっきり言え」
「このパソコンではなく、人権を保護しない某国に、
「……治外法権、ってやつか」
トレンチコート姿のトットリ警部は、悔しそうに言いました。
「はい。この、倒れている男を、我が国の法で裁くことは、そもそもできなかった、ということです」
「海賊版人身売買などという、明らかに人道に反する行為をしていたはずだというのに?」
トットリ警部は、ギロリと、メガネの監察官を見やりました。
「……残念ながら。証拠に基づかなければ」
「国がそんな悠長な事を言っているから、こうやって、『削除人』がはびこるのだろう? 密室に忍び込み、犯罪者に自分勝手な裁きを下し、そして忽然と消える。くやしいとは思わんのか?」
「警部のお気持ちには同感です。ですが、我々公僕には、権限というものがあります。権限を越えて行動する事はできません」
「ふう……法の
トレンチコートのトットリ警部は、溜息と入れ替えに、タバコの煙を体内に取り込みました。肺を巡ったその白煙を吐き出してから、タバコを灰皿に押しつけると、水が張られた灰皿が、じゅうという音を立てました。
「警部、どうしますか?」
部下と思しき若い男が声をかけました。
「被害者は検死に、凶器と思しきパソコンは鑑識に、それぞれ任せるしかないだろう。我々はしばらく、待ちだ」
「わかりました」
部下を見送ったトレンチコートのトットリ警部は言いました。
「しかし……一体、何者なんだろうな……法が裁けぬ犯罪容疑者を討つ、『削除人』の正体は……。捕まえたほうがよいのか、悪いのか……」
その存在は。
定義されたルールにおいては、『人に危害を加えた犯罪者』に該当するはずではありますが。
一部始終を見ていたイルセが、女性探偵、
「ミッシツってなあに?」
「えっ? 人が出入りできない、閉じられた空間のことだよ?」
「そうなんだー」
そしてイルセは、両腕を背中の後ろで組んで、ぴょんと跳びはねるように、トットリ警部のもとへ駆けていきます。そして、言いました。
「普通の人が、ミッシツに、どうやって入ったのかなぁ?」
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