第2話 其は赤薔薇のオルゴールなり
「ああ、愛しのアイリーン! 今日は君にこれを捧げよう」
そう言ってアルフレッドが取り出したのは、赤い薔薇の模様がきざまれた綺麗な木製の箱だった。縁には細やかな金細工が施されており、ところどころにちりばめられた宝石たちがキラキラと輝きを放つ、アイリーン好みのモノだ。
「まあ、アルフレッド様。こんなにも素敵なもの、いったいどうなさいましたの?」
「それを言っては野暮というものだよ、アイリーン――僕の赤薔薇の君。君はこれを受け取るだけでいいんだ」
「はい、アルフレッド様」
アルフレッドの手から木製の箱を受け取ったアイリーンは、それがただの箱ではないことに気がついた。アルフレッドが持っている時は見えなかったが、薔薇のつぼみの形をした巻き鍵が箱の側面についていたのだ。
「これは、オルゴールかしら?」
その言葉にアルフレッドはいっそう笑みを深め、アイリーンの頬を指でなでる。
「そうだよ。君のために最高級のものを取り寄せたんだ」
「お高かったでしょうに」
「値段を気にすることはないさ。僕はただ、君のためを想って選んだだけなのだからね」
そう言うと、アルフレッドは商人との会談があると言ってアイリーンの部屋から颯爽と出て行った。
「はぁ……。忙しいのは分かりますが、どうせならばともに音色を楽しみたいものですわ。アルフレッド様」
扉の鍵を閉まる音が聞こえたアイリーンはため息をつく。
ここはハルステア王国第二王子アルフレッドが治めるアトマシア領に建つ領主館の一角。館の主であるアルフレッドが愛する女性、アイリーンのために用意した薔薇の芳香で包まれた秘密の部屋――薔薇の間だ。
部屋の主であるアイリーンとその侍女、アルフレッド以外の立ち入りが禁じられており、館に勤める使用人たちのほとんどが存在すら知らぬ場所。そんな場所にハルステア王国がミスヴァイア公爵令嬢、アイリーンは軟禁されていた。
「それにしても、いつになったら外出ができるのかしら? いい加減に約束を守ってほしいものだわ……」
半年前にアルフレッドの正式な婚約者として選ばれたアイリーンが薔薇の間に滞在し始めてから早二ヶ月。その間、彼女は一度も部屋の外に出ることを許されていなかった。アイリーンと共にミスヴァイア公爵邸からやってきた侍女たちは、屋敷内や部屋の窓から見える広々とした庭をある程度の自由の中で歩き回ることが許されているのにも関わらず。
しかし、それでもアイリーンがこの部屋から出ようとしないのは、アルフレッドとの間に三つの約束を交わしたからに他ならない。
一つ、アルフレッドの婚約者としてアルフレッドの屋敷に滞在すること。
一つ、アルフレッドが許しを出すまでは薔薇の間から出ないこと。
一つ、アルフレッドの意思を尊重すること。
これらを守ることは比較的簡単ではあるが、もしアイリーンが行動的な女性であればこのように悩むこともなかっただろう。
ただアルフレッドが出て行った扉の鍵を開けて、部屋から一歩出れば良いだけなのだから。
「でも、そうねえ。約束と言うよりも契約ですものね。この部屋で過ごすようになってもう二ヶ月。いいえ、まだ二ヶ月と考えたほうがよろしいのかもしれませんわ。アルフレッド様はきっと私を守ろうとこの約束を交わしたのでしょうし……。悲観的になってしまっては、あの方の婚約者としていけませんわ」
気持ちを切り替えるように、一度深呼吸をしたアイリーンはその手に持つオルゴールへ視線を向けた。アルフレッドがアイリーンを想い、アイリーンのために取り寄せたと言う最高級のオルゴールは、赤くきらめきながらその身に宿る音楽を奏でるのを今か今かと待ちわびている。
「ふふっ。一人では少し寂しいけれど、せっかくですし音楽鑑賞といきましょうか。アルフレッド様が私のために用意してくださったのですから」
オルゴールをそっとテーブルの上に置き、薔薇のつぼみの形をした巻き鍵をゆっくりと巻いていく。小さな音がその内部から聞こえてくるのは、この薔薇の間にアイリーン以外の誰もいないからだ。侍女たちはアルフレッドがやってきた際に、薔薇の間の隣にある待機部屋へと移ってしまった。テーブルの上にある呼び鈴を鳴らせばすぐに現れるだろうが、――今はいい。
アイリーンはアルフレッドが自分のために用意してくれたオルゴールを、アルフレッド以外と楽しもうとは思いもしなかった。それは恋心から来る独占欲で、いくら仲の良い侍女たちでもアルフレッドの寵愛を受けているアイリーンは彼女たちがどれだけ二人のことを温かい目で見守っていてくれようと、嫉妬してしまうのだ。
――カチリ。蓋を開けると、一瞬、甲高い音が聞こえて来た。しかしそれは不思議と不快な音ではなく、後から流れてきた柔らかな旋律に包まれてすぐに消えてしまうほどかすかな音だ。円盤の不調かと思ったが、アルフレッドがそのような不良品をアイリーンに持ってくるとは思えない。だからこそアイリーンは、その音すらもこの聞き覚えのない曲の持ち味なのだろうと考えた。
不思議と耳に馴染む音色に包まれながら、紅茶を一口。今日はアイリーンの筆頭侍女がお勧めと称したフェルトリタ大公国産のスパイシーなフレーバーティーだ。シナモン、カルダモン、ローリエ、ジンジャーなどがブレンドされておりミルクティーによく合うと聞いていたアイリーンは、二口目からはミルクを入れて口の中を潤す。
「ああ、なんて素敵な音色なのでしょう。早くアルフレッド様がお戻りになられたらいいのに……」
室内にはオルゴールが奏でる音色に包まれるうち、アイリーンは薔薇の間から出ることを許されていない二ヶ月の間に蓄積されたストレスが少しずつ解放されていくような気持ちになった。雁字搦めになった細やかな糸をほぐすように、積もりつつあった澱みがゆっくりと薄れていく。
そして、いつしかアイリーンは椅子にもたれて眠りについていた。
意識のある観客がいなくなったあと、曲を演奏し終わったオルゴールは誰も触れていないというのにゆっくりとその蓋を閉めて沈黙する。まるで、それが意識を持っているとでも言うように。
――カチリ。扉が小さな音を立てて開かれる。薔薇の間の入り口ではなく、侍女たちの待機部屋へとつながる小さな扉――そこから現れたのは、先ほど商談へと向かったはずのアルフレッドであった。
「ああ、アイリーン。愛しい僕の薔薇の君。……初めてにしてはうまくいったかな?」
椅子にもたれて眠るアイリーンに近づいたアルフレッドは、なぜかアイリーンではなくテーブルの上で沈黙するオルゴールを手に取った。
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