故郷から


 あなたはきっと帰ってこない。


 故郷のことなんてもうとっくに忘れてしまったことでしょう。山々に抱かれた街並み、細い坂道、新鮮な海産物、賑やかなお盆、どこに行っても出くわす尾曲がり猫、そして、口うるさい母親のことも。


 お母さんは後悔しています。どうして、あのときもっと冷静にあなたの話を聞いてあげなかったのでしょう。あなたが上京してから十年。そのことを考えなかった日はありません。考える度に、自分がどれだけ至らない母親だったかを思い知らされるのです。


 地方の若者にとって、東京への憧れは飢えのようなものなのでしょう。上京したあなたを羨む声はいまでも聞こえてきます。国際都市と言われるこの街でも、若者がまず憧れを抱くのはこの国の首都なのです。


 あなたもそうでしたね。東京の大学に進学したい――高校一年の三者面談で、お母さんはあなたの秘かな夢を知ったのでした。


 あのとき、お母さんがどう思ったかわかりますか。裏切られた。そう思ったのです。


 あなたはよくできた娘でした。言われなくても、宿題を終わらせ、自分から家事を手伝い、ペットの面倒を見てくれました。ありがとう。そう伝える度にはにかんだように俯くあなたの姿がいまでも忘れられません。


 ですから、あなたを育てるのに苦労をした、などと恩着せがましく言うつもりはありません。お母さんはあなたにずいぶん楽をさせてもらいました。何て幸福な母親でしょう。よその家と比べて、母の日や誕生日に、プレゼントをもらえないことに不平を漏らしていた自分が恥ずかしくてなりません。


 お母さんはあなたに甘えていたのでしょう。あなたが自分で勝手に育つに任せていたのでしょう。そうであればこそ、あなたがはじめて自分を主張したとき、裏切られた、と感じたのでした。


 それからの三年間は喧嘩ばかりでしたね。女二人が泣いて、喚いて、物を投げ合って。あのときのお母さんは愚かでした。あなたの話を聞こうとせず、頭ごなしに否定するばかりでした。結果として、あなたが埼玉のお父さんを頼って家を出てしまうのを止めることができませんでした。


 わたしたちはもっと冷静に話し合うべきでした。そのためにはまず、お母さんがあなたの気持ちを尊重すべきだったのでしょう。その上で、自分の気持ちを素直に伝えるべきだったのでしょう。そうすれば、いまでもあなたを手元に置いておくことができたのかもしれないのです。そう考えると悔やんでも悔やみきれません。


「お母さんが死んでも戻ってこない」


 あの日、あなたはそう言い残して家を出ました。きっと、その言葉に嘘はないのでしょう。お母さんの顔、声、言葉。その全てに別れを告げたのでしょう。この手紙だって、きっと読む前に引き裂いて捨ててしまうでしょうね。それでも、最後にこれだけは言わせてください。


 さようなら、七海。


 あなたと過ごした十八年間があるかぎり、お母さんは決して不幸な人生だったとは思いません。

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