氷川さんと櫻子さん

 家出先はいつも父方の実家だった。


 中学生活最後の冬休みだった。偏西風に乗ってきたサンタクロースが、列島に大雪をばらまいたのが一週間前。演出過剰のホワイトクリスマスが終わったと思ったら、次の週は雨続きになった。いまも小雨がぱらついている。勢い任せで家を飛び出した櫻子は、中学生活を共にしてきたダウンのフードを被り、季節風に逆らうようにして、前かごがへこんだシティサイクルを走らせた。針ヶ谷の自宅から産業道路をひたすら北進して天沼町の鵜飼家を目指す。


 祖父が亡くなって以来、祖母は北区に住む叔父夫婦の誘いを断って、マンションで一人暮らしをしていた。祖父と共通の趣味だった探鳥会もいまは一人で参加している。叔父夫婦とも度々会っているようだが、孫の可愛さはまた格別らしい。櫻子は顔を見せる度にお小遣いをもらい、外食に連れて行ってもらった。


「塾はもうお休み?」


 祖母はロースの焼き加減を窺いながら言った。


「ええ」


 大宮駅前の安楽亭で遅めの昼食をとることになった。櫻子は肉中心のランチセットを注文し、絶え間なく肉を焼いてはライスとともにかき込み、ワカメスープと烏龍茶で口の脂を洗い流した。祖母はそんな櫻子の食べっぷりを写真に収めながら、ユッケジャンスープとサラダをゆっくりと食していた。


「なら、お正月はずっとこっちにいられるわね」祖母は冗談とも本音ともつかない口調で言った。「そうだ。明日は初詣に行きましょう」


「氷川神社ですか」櫻子は箸を止めた。「大晦日はさすがにおしくらまんじゅうでしょう?」


「なら、早朝に参りましょう」祖母は焼けた肉を櫻子の皿に置いた。「調宮さんには悪いけど、今年くらいはこっちが先でもいいわよね」


 毎年、お正月には鵜飼家を訪ねていた。家族を伴うこともあったし、そうじゃないこともあった。近年はずっと、一人、自転車を飛ばして会いに行く。三箇日に家族で調神社に参った後、祖母の初詣にくっついて行って二度目の参拝をする。二度目のお願いごとをして、二度目のくじを引く。弟は「セカンドオピニオンだ」と揶揄するが、結果がどうあれ、櫻子は調宮さんより氷川さんの力を信じる。


 日が暮れてすぐ年越しそばをすすり、夢の中で新年を迎えた。日が昇る前に起きて、祖母と参拝の準備をする。天気予報は、曇りのち晴れ。この数年では最も寒い元旦になるらしい。防寒インナーの上から鳩尾と背中にカイロを貼り合い、タイツを重ね履きする。手持ちの装備で考え得る最強の防寒仕様――ダウン、ストール、ミトン、耳あて付きのニット帽を身に着けて出発の準備が整った。


「これだけ厚着だとちょっと不敬かしら」


 櫻子に負けず劣らず着膨れした祖母がつぶやいた。


「大丈夫でしょう」櫻子は断言した。「神様ですし」


 天沼町から、新都心に向かって歩いた。下原刑場跡に立つコクーンシティを通り過ぎ、日本一長い参道に入る。立ち並ぶケヤキは葉を落とし、竹箒のシルエットを晒していた。早い時間だが、人通りが絶えない。まだ暗い空の下、無数の着膨れした人影が境内までの長い道のりを歩いていた。


「覚えてるかしら。おじいさんが生きてたとき、一度だけ氷川さんに参ったことがあったでしょ」


 櫻子はうなずいた。まだ就学前のことだ。鵜飼家の炬燵でまどろんでいると、祖父に「初詣に行くか」と声をかけられた。すでに調神社にお参りしていたことがどことなく後ろめたくて、参拝中はずっと落ち着かなかったが、おみくじで大吉を引き、神様の器の大きさを知ったのだった。


「おじいさんはね、初詣をしない人だったのよ」祖母は言った。「合理主義の人だったから。ほら、仏壇だって作らせなかったでしょ」


 祖父は学生時代、活動家だったと聞く。浦和の有名進学校に通いながら、受験対策一辺倒の教育や厳しい服装規定に異を唱える運動に参加していたという。学校封鎖の日にインフルエンザで寝込んだ後悔をばねに、大学ではより熱心に活動に打ち込んだ。ガリ版刷りの達人で、誰よりも早くビラを刷り上げ、銀行員よろしくの手さばきで枚数を数えた。


「じゃあ、どうしてあのときは初詣に」


「さあ」祖母は首を振った。「あのときはそれが合理的に思えたんじゃない」


 二の鳥居が近づくにつれ、徐々に人が増えていく。やがて、空腹を刺激する匂いが漂って来きた。境内まで続くらしい、道の両側に露店が広がっていた。


「朝食にしましょうか」


 櫻子はうなずき、目についたやきとりを買った。串に連なった豚タンと深谷ネギに、甘辛い味噌だれがかかっている。ごま油とにんにくの匂いに食欲を刺激され、すぐさまかぶりついた。大口でかぶりついたせいだろう、一口が大きくなり、熱々の味噌だれが口の中で燃え上がった。口をはふはふさせながら、豚タンのこりこりとした食感と深谷ネギの甘さを堪能していると、祖母がスマートフォンのレンズを向けてきた。


「あなたはおじいさん似だと思うわ。魚嫌いなのは変わらないんでしょう?」


「内陸育ちですから」櫻子は言った。「うなぎは好きですよ」


「そういうとこまでそっくり」


 三の鳥居までに、すいとんとたい焼きを買い、祖母の味噌ポテトと交換しながら腹を満たした。いよいよ境内だ。他の参拝者に倣って帽子、ストール、ミトンを脱ぎ、一礼とともに鳥居をくぐる。摂末社とおみくじ売り場を横目にやや湾曲した参道を進み、橋を渡った。手水舎奥の、蛇の池で祖母と鯉の写真を狙った。手水舎に引き返して身を清め、桜門をくぐると、拝殿が見えてきた。行列に並びながら、財布から五十円玉を取り出して備え、そこではじめて願いをどうするか考えた。


「何を願ったんですか」


 拝殿から引き返しながら尋ねた。


「櫻ちゃんがいい学校に入れますようにって」


「いい学校ってなんですか」


「櫻ちゃんが納得して入れるところ」


 東門から、門客人神社の地主神を参った後、ひょうたん池と白鳥の池にカメラを向けながら、おみくじ売り場に向かった。


「去年は二人とも吉凶未分でしたよね」


「そうね。今年もぴったり揃うといいんだけど」


「スロットじゃないんですから」櫻子は言った。「それに、二年連続となると確率的には十三かける十三で――〇・六パーセントくらいになるんじゃないですか」


「さすが、受験生ね」


 おみくじを開くと二人とも平吉だった。祖母は「また記念にしなきゃ」とはしゃぎ、二人分のおみくじにレンズを向けた。


 帰り際、二の鳥居前の天満神社に参ることにした。櫻子のおみくじにそうするよう指示されていたのだ。露店のフランクフルトを頬張りながら、腰の曲がった一団が社殿の前からはけるのを待ち、今度は二人揃って学業成就を祈った。


「今年もセカンドオピニオンが必要?」


「どうでしょう」櫻子は肩をすくめた。「家族が行くんなら行くんでしょうけど」


 昼食の雑煮で体を温めた後、櫻子は鵜飼家を辞した。季節風を追い風に浦和に戻ると、来客の応対に追われる両親を横目に母方の親戚たちからお年玉を巻き上げ、自室で早起きの体を休めた。夕方になってから、母親に怒鳴り起こされ、ひとしきりやり合ってから、親戚一同とおせちを囲んだ。ブリや数の子をいやいや口に運び、愛想笑いを振りまいた。寝る前にもう一度、母親と喧嘩して、東京の私立には進学しない旨を改めて伝えると、とうとう母の方から手が出た。武道の有段者同士による本気の取っ組み合いは、駆けつけた親戚と父に止められるまで続き、櫻子は勝ちきれなかった悔しさと、ある決心を胸に眠りについた。


「調宮さんには、お母さんに勝てるようお願いしよう」

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