第7話「基本コース六十分一万八千円の夜」

 四十分経っても、男はたなかった。

 わたしは、持てるすべての技術を駆使した。両手の十本の指先を使った。素人には絶対に真似できない形で、舌を使った。唾液をからめ、唇をすぼめて締め付けた。強弱をつけて吸った。ときに歯の先で刺激した。しかし、男は勃起しなかった。

「あ……もういいや。ちょっと痛いし。おかしいなぁ」

 男は申し訳なさそうに言いながら、ラブホテルのベッドで上体を起こした。

「ごめんなさい」

 わたしは男の股間から顔を離した。オレンジ色の照明に照らされた男のペニスは、だらしなく垂れ下がったままだった。

「いや、なんか、こっちこそごめん」

 今日はじめての客だった。いや、この三日ではじめての客だ。しかも、かなりの「当たり」だ。わたしにとって、客はハゲでもデブでも構わない。けれど、男はどちらでもなかった。口や脇の下は汚くないし、匂わなかった。包茎でもなかった。チンポも臭くない。わたしに暴言を吐いたりしないし、痛いほどおっぱいをまさぐったりもしない。クンニもそこそこの腕で、決して下手ではなかった。AVの雑な真似をした乱暴な手マンもしなかった。ちゃんと「指入れるよ?」と訊くだけの礼儀と常識を持ち合わせていた。

 ありがたいほどの上客だ。

 それだけに、わたしは悔しかった。

「なんか、今日は不調みたいだなぁ。どうしてだろ?」

 男は、えてうなだれている自分のペニスを見ながら言う。

「ほんとにごめんね。わたしだけ先に電マでイッちゃったのに」

 わたしは、デリヘル嬢だ。必ず男をよろこばせ、射精に導くのがプロの仕事というものだ。

 初対面の男であっても、その男がどんなに不潔であっても、どんなに不細工であっても、わたしはその男とキスができる。唇を吸い、生ゴミのような匂いのする口の中に自分の舌を入れ、どろどろの廃液のような唾液を飲み込むことができる。男を抱き締めることができる。男の前に裸身をさらすことができる。股ぐらを開き、おまんこを拡げて見せることができる。男のペニスをしゃぶることも、逆に全身をなめられることだって、平気だ。喜悦の声を上げる真似もできる。イッたフリをすることだって、わたしには簡単だ。コンドームを着けていない包茎男と生でファックできる。ときにはわたしの膣の中で射精させることだって、わたしにはできるのだ。

 そしてシャワーを浴び、歯を磨き、アフター・ピルを飲んだら、ファックの三十分後には、わたしはその男のことを忘れることができる。このロクでもないクソ溜めのような日常に戻り、「フツーの女の子」として生きるフリをすることができる。

 わたしが十年近くも漂っているこの世界で、首までゴミにかりながら身に着けたのは、フェラチオの技だけじゃないのだ。誰にも決して褒められることのない、蝿がたかる犬の糞程度の自負と誇りだ。

「俺のチンチン、死んでるな。あ、『死んでる』で突発的に思い出した。昔、ネコ飼ってたんだけどさ……」

 男は場の空気を取り繕うように、ことさらに明るい声で言った。

 今日と同じ明日が来ることを思えば、心臓がつぶされそうな気分になる。だけど、今日と同じ明日が来なかったならと考えれば、それはとてつもなく怖くて、震えが止まらない。

 が、そんな板挟みになっても、わたしは嘔吐おうとしない。満員電車の中で突発的に大声を上げたりしないし、道行く人の喉を包丁で掻き切ったりしないでいられる――今のところは。かろうじて、わたしは正気を保っていられる。

 なぜならわたしは、プロのデリヘル嬢だから。プロフェッショナルの淫売として、生きていくことしかできないから。

 かつては、リスカしたこともあった。産毛うぶげ処理用の剃刀かみそりを手首に当てただけで、心休まる気がしたこともあった。力を入れずに、すーっと一気に引いて皮膚を切り裂く。肉がぱっくりと割れ、薄ピンク色の切り口があらわになる。二、三秒ほど遅れてから、じわじわとにじみ出る赤黒い血――それを見ると、心底解放された気分になったこともあった。

 そのときの傷はうっすらと、まだわたしの左手首に残っている。

 カミソリで切れば、死に近づけると思っていた。けれど、それは間違いだ。確かに、驚くほど大量の出血はした。傷を押さえたタオルが血を吸って真っ赤に染まり、血液の重さがずしりと手に感じられるほどだった。が、それでべつに死にはしない。その程度で死ぬはずがない。人間というものは、意外にしぶとい。わたしは「死のうとしている、かわいそうなわたしゴッコ」をしていただけだったのだ。

「――そんとき、マジでびっくりしたなぁ。死骸ってのは、こんなにカチカチになるんだなぁ、って」

 男はいつの間にか、子どもの頃に飼い猫が死んだときの思い出を語っていた。二泊三日の家族旅行から帰ってきたら、老いた飼い猫がリヴィング・ルームで死んでいた、という。

「持ち上げたら、四本の脚がそのままぴーんと伸びたままだった。これが死後硬直ってやつかぁ、って実感したね。あ、こういう話、つまんないよね」

 男はわたしの両眼を覗き込んだ。わたしは得意の作り笑いを男に見せた。

「つまんなくないよ。わたしも小学校の頃、通学路でネコの死骸を見たことがあった」

「へえ、で、どうしたの?」

 男は真顔で訊いた。

「以前から通学路をうろついてた野良猫だったんだけどね。ある日に学校から帰る途中、そのネコが道路の真ん中で死んでた。病気だったのか、老衰なのかわかんないけど」

 男は、わたしの言葉を促すかのように、何度もうなずいた。

「今思えばマジキモいんだけれどさ、友だちと二人でそのネコの死骸を、拾ってきた段ボール箱に入れて、お葬式をやったの。近所で摘んできたタンポポを枕元にお供えして、手を合わせてね」

 不意に、ぶっ壊れた蛇口から水があふれ出るように記憶が甦った。

 小学四年の秋だった。友だちの名前は、リホちゃんと言った。わたしと違って優等生だったリホちゃんは、国立大学の法学部に現役合格した。そして合格発表の直後、高校の卒業式翌日にマンションの十一階から、あの世にダイヴした。

「段ボールの棺桶はどっかに埋めたの? まさか火葬はしてないよね」

「それがさ、わたしたち、ひどいんだ。家と家の間の狭い隙間に段ボールを押し込んで隠して、それで埋葬したような気持ちになっちゃったのね。埋めてないのに。で、次の日にはもうすっかり忘却してた」

「そのまんま放置したってこと?」

「そう。通学路だから、毎日通ってはいたんだろうけど、それっきりネコのことなんて一ミリも思い出さなかった。サイアクだね。わたしたちはネコの死骸を利用して、『葬式ゴッコ』をしただけなんだ。『死んだネコをかわいそうに弔ってあげる心優しい小学生ゴッコ』だったんだよ」

 男はためらいがちに笑った。笑うと、両眼の目尻に皺が寄った。思っていたよりも年長なのかもしれない。それがかえって男を無邪気に見せていた。

「実はすごい残酷なんだろうね、わたし」

「俺だって、カッチカチに死後硬直したネコの死骸の脚を引っ張って遊んでたよ。子どもって残酷なんだ。死の意味がわかってないんだから」

 死の意味――わたしだって、いまだに死の意味なんてわかってはいない。かつてリスカしたときも、死にたいからではなかった。リホちゃんがどんな気持ちでマンションの十一階から飛んだかも、わからない。

 かといって今、このクソ溜めで生き続けたいと執着しているわけでもない。死はわたしにとっては身近じゃない。他人事でこそないけれど、少しだけ手の届かない距離にある「ナニカ」に過ぎない。

 とりあえず今のわたしは、カミソリなしで生きてる。四ヶ所の心療内科に通い、それぞれで処方された睡眠導入剤と抗鬱剤の合計十三錠を、毎晩ストロングな缶チューハイでイッキに胃のへ流し込む。そうすれば、わたしはやっと眠りにくことができる。文字通り、死んだように眠れるのだ。死ぬ度胸はないけど、限りなく死に近い眠りを、わたしは毎晩むさぼっている。

 なんとしぶとい生き物であろうか、人間は。

「俺に比べれば、すごく優しいと思うな。たぶんそのネコ、成仏じょうぶつできたよ。ネコに天国があるのか知らないけど」

 男の言葉にわたしは我に返る。

「だといいけど。でもやっぱり、わたしは残酷な子どもだったんだと思う。それって今もあんまり変わってないかも」

「俺はたぶん、どっかヘンなんだ。中学の頃さ、車にかれた動物の死骸を見つけた。ネコかと思って近づいてよく見たら、タヌキかアライグマだった。たぶんアライグマだな」

「田舎に住んでたの?」

「田舎ってほどじゃなかったけど、緑は多かったね。死骸が転がってたのは、林と休耕田に挟まれた一本道だった。死骸は、死んでから一晩くらい経ってたっぽいんだけど、口と耳から血を垂れ流して、腹からは内臓がはみ出てた。血はもう渇いてて、どす黒かった。目玉はカラスにでも突かれたのか、赤黒い穴になってた。ハエが何十匹も、わんわん飛び回ってたっけ。あ、こういう話、グロいよね」

「ううん、いいよ、続けて」

「俺、棒を拾ってきた。はみ出た内臓に引っかけて、引っ張り出そうとしたんだ。けれど血が固まってて、ムリだった。じゃあ腹を引き裂こうと思って、刃物代わりになるような石か何かを探してたら、車が来る音がしたんだ。泥だらけのデカいダンプカーだった」

 そこで男は言葉を切った。わたしは拳ひとつ分、男に体を近づけた。

「そしてどうなったの?」

「たぶん、俺のこと軽蔑するよ。いや、ドン引きするかも」

「しないよ、ゼッタイに。わたしだってクソ残酷な人間だから」

 男は一瞬真顔になって、わたしの眼を覗き込んだ。そのまま男は言った。

「ダンプカーは、アライグマの死骸を轢いた。でっかくて黒いタイヤが死骸を踏んだ。その瞬間、『ぐじゃっ』て音が聞こえた気がする。けど、それって俺の脳味噌が記憶を改竄かいざんしてるのかもしれない。アライグマはマンガみたいに、見事にぺっちゃんこになってたよ。まだ体内には血が残ってたんだろうね、真っ赤でぬめっとした血しぶきがアスファルトに拡がった。ダンプカーは、轢いたことに気づかずに通り過ぎて、行っちまった。そのとき、俺がどうなったと思う?」

「わかる気がする」

「どうなった?」

った」

 男はわたしの両眼の奥の奥を覗き込んだまま、うなずいた。

「そう、勃起した。それはもうギンギンにね。走って家に帰って、すぐにオナニーした。グッチャグチャの死骸をズリネタにして、シコったんだ。アライグマのどす黒いはらわたにチンコ突っ込むのを妄想したんだ。血みどろのはらわたに、俺のチンコを何度も何度も突っ込む。べっとべとの血と内臓がチンコにへばりついて、生あったかいんだよ……妄想だけど。で、そのときの俺、四回もイッちゃった。どんだけ精子が出るんだ、っていうぐらいに射精しまくった。妄想の中で、アライグマのぐちゃぐちゃのはらわたの中に、いっぱい中出ししてやったんだ。とんでもなく気持ちいいオナニーだったよ――俺、アタマおかしいよね。引くよね」

「普通じゃないとは思う。けど、わたしは引かない」

「どうして?」

「だって、わたしも今、びしょ濡れから」

 わたしは手を伸ばし、男のすでに屹立しているペニスを摑んだ。同時に反対の手では男の手を握り、わたしの濡れたヴァギナへ導き、その指先をクリトリスに押しつけた。

「壊れてるんだよな。俺ら、狂ってる。キチガイだ」

「わたしたちはキチガイじゃない。正気だよ。正気だから、壊れたくなるんだよ……『誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか』なんてね」

「ん? それって誰かの名言的なやつ?」

「芥川。『歯車』って小説読んだことない?」

「ない……と思うな。『蜘蛛の糸』とか『杜子春とししゅん』とかなら、教科書に載ってたかも。忘れちゃってるけどね」

「わたしたちを絞め殺してくれる人って、いないじゃん。だったら、自分から段ボールの棺桶に入るしかないんだよ」

 オレンジ色の証明に照らされた男は、優しく微笑んだ。

「そっか。確かにそうだ。そしてバカでかいダンプカーが全力で走ってくるんだ、アスファルトの上でのたうち回る俺たちに向かって――」

「そう、アホみたいに超巨大なタイヤがぐるぐる回転しながら、わたしたちに迫ってくるんだよね」

「タイヤで俺らを轢きつぶしてくれるんだ」

 男はオレンジ色の照明の下、わたしの両肩を強く抱き寄せると、わたしの右の首筋にむしゃぶりついた。

「ぐじゃっ、って音を立てるんだよね! そして、わたしたちはドロドロの血しぶきをアスファルトの上にまき散らす」

 わたしは男の背中に爪を立てる。ぷつん、という感触のすぐ後に、男の皮膚からは生暖かい血がこぼれ始めた。

「でも、俺らの死骸に誰も気づかない。クソ最低で、クソ最高だな!」

 男はわたしの首筋に歯を立てた。

「そうね。でも、ダンプに轢かれる前に――」

 わたしは男をベッドに押し倒した。

「一発やっといたほうがよくない?」

 わたしは男の勃起したペニスを摑んだ。そして、べっとりと濡れそぼったわたしのおまんこに、それを深々と受け入れた。

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