めぐる春、桜花爛漫の候
夜半に、
暗い部屋の中でゆるりと首を動かすと、格子窓から零れる月明かりに照らされた
しろたえ? と甘やかな声が未だに夢現をさまよう白妙の耳に届いた。
「……起きた?」
有仁が心配そうに白妙を見下ろす。ふと伸びてきた有仁の手が、白妙の額に触れる。ひやりと冷たいその手が心地よくて白妙は目を細めた。
「熱は下がったみたいだね。あとは朝までゆっくり寝ていていいよ」
「眠くない……」
今の今まで眠っていたのだ。ゆっくり寝てて、と言われても眠気は戻ってくるはずがない。
「病人は寝てなきゃ駄目だよ。ああ、そうだ。自分の部屋に戻る? 布団も敷いておいたし、部屋もあたためているけど」
有仁にそう言われて、白妙はようやくここが有仁の部屋で、自分が今、普段有仁の眠っている布団のなかにいるのだと気づいた。
「……ここがいい。有仁がいいなら」
「いいよ。俺は寝るつもりないし」
有仁のにおいに包まれていると、何故か安心するのだ。こうして甘えてはいけないと言い聞かせているというのに、熱を出して弱った心は自立することを厭う。
白妙が眠れずに布団の中でもぞもぞと動いていると、有仁は苦笑して「眠れない?」と問うてきた。丸一日眠っていた白妙は、当然だとでも言いたげに有仁をじろりと睨み付ける。
「ねぇ有仁、何か話して?」
白妙が退屈を紛らわせるために有仁に強請る。普段からあまり多くを話さない有仁には難題だった。眉を寄せて渋い顔をしたのち、有仁は身構えるように体を硬直させた。
「……俺の話はつまらないよ?」
「いいよ。有仁のこと話して」
何か、から有仁のことになっている。さらに難しい要望になっていた。有仁は苦笑しながら白妙の髪を撫でた。触れることに、以前のような躊躇いはない。
有仁は言葉を探すように視線をめぐらせ、そうして「俺はね」と呟いた。
「俺は、自分のことが嫌いなんだ」
一瞬聞き間違いではないかと勘違いしそうになるほどはっきりとした、有仁にしては明るい声だった。
「……え?」
白妙が呆けたように呟く。有仁はこの先を話すかどうか迷うように白妙を見下ろした。
「つまらない話だけど、まだ聞く?」
「……聞きたい。だって、それだけじゃちっともわからないもの。どうして、自分が嫌いなの?」
何もかもを見透かすように射抜く白妙の瞳に、有仁はやわらかく微笑む。
「でも、今はそんなに嫌いじゃない」
有仁が呟くと、白妙はほっと安堵の息を吐く。
「夢占の里の話をしようか。あそこはね、夢狂いの人間の集まりなんだ。夢が絶対で、あいつらにとっては神様みたいなものなんだ」
夢により、未来や過去を視る力。そんな力を持つ者たちが住まう里。山の何処にあるのか、武の里の人間は知らない。少なくとも、武の里と繋がりのある里の者たちは知らないのだ。
「昔――幼い頃に、俺はとある里の男が、人を殺す夢を視た。子どもだった俺は、父に、長老に、大人たちに、その夢を話した。……それで、どうなったと思う?」
有仁の纏う空気が重くなる。
じとりと、夏の夜の空気のように体に纏わりつくそれは、暗闇を凝縮したような底知れなさがあった。
「殺されたんだ。里の人間たちに。罪を犯す人間は、犯す前に殺してしまえってね」
感情を含まない有仁の声が、響く。
ぞくりと背筋を這う寒気に白妙は身体を震わせた。そんな白妙を見て、有仁は後悔したような表情になって、曖昧な笑みを浮かべた。ごめんとすぐにでも言い出しそうな有仁の手を、白妙は布団からするりと出した自分の手で、しっかりと握りしめた。
夢狂いという言葉に、なるほどと納得せざるを得ない。彼らは夢で視たものを、何一つ疑わないのだ。過去はともかく、未来に確定したものなどないというのに。
「それ以来、俺は夢を視るのが嫌いだし、おそろしい」
白妙はぎゅっ、と握りしめる力を強める。おそろしいのは、夢であり自分なのだ。有仁は夢を視る自分が、おそろしくて、嫌いなのだ。
「夢を視ていても、視ていなくても、有仁は有仁だよ」
有仁の手が震えていた。白妙は、何を言えばいいのか分からず、結局それしか言うことができない。けれど有仁は、目を丸くして、そして、何か救われたような、許しを得たような、そんな顔をした。今にも泣きだしそうな顔だった。
「……いつも白妙は、俺を救ってくれる」
ありがとう、と有仁が渾身の言葉を吐き出すと、白妙は目をまん丸くして有仁を見上げた。
「いつも?」
「うん。いつも。白妙は、覚えてなくても」
満開の桜の咲き乱れる季節、一夜限りの出会いがあった。有仁の心にはそのときの少女の表情も言葉もしっかりと刻み込まれているけれど、少女にとっても同じように忘れがたい出会いであったとは限らない。
「……有仁だけが覚えているのって、ずるいと思う」
白妙が不満げに呟くので、有仁はくすくすと笑みを零した。ふくれっ面の白妙の髪を撫でて、ひとつ約束する。
「それじゃあ、桜が咲くころになったら、教えてあげる」
それは睦言を告げるかのように甘く、やさしく白妙の耳に届く。
なんだか有仁は急に大人になってしまった気がする、と白妙は一抹の寂しさを感じながらも、髪を撫でる有仁の手のぬくもりに安堵を覚えた。
・
・
・
もう走り慣れた山道を駆ける。冬の名残雪は数日前に消え、山はじわりじわりと春を呼んでいた。駆け抜ける地面には、淡い緑がぽつりぽつりと浮かんでいる。
ここ数日、雪が消えかかった頃から有仁には日課があった。武の里から少し離れた場所にある、山桜の大樹を見にゆくのだ。そこは、白妙との出会いの場所でもあり、有仁が武の里の「有仁」へと生まれ変わった場所でもある。思い出深いその山桜が咲いたら、とひとつ決めたことがあるのだ。
有仁は山桜を見上げ、空に近い一枝にようやく綻んだ一輪を見つけ、目を細めた。
――春が、来た。
豪華絢爛、桜満開の季節まで、あと少し。
すやすやと寝息を立てて眠る少女はあどけなく、しかしその寝姿は凛とした雰囲気も感じさせた。
有仁は襖をあけ、穏やかに眠る少女を――白妙をじっと見つめる。年明け、熱を出して白妙が寝込んで以降、彼女はまた朝寝坊をするようになった。有仁が執拗に休んでいるように口うるさく言ったせいかもしれないし、白妙に何か心境の変化があったのかもしれない。
春の朝にけぶる靄も晴れ、やわらかな陽光が降り注ぐ時間帯だ。白妙に甘い有仁も、これほどの時間となると心を鬼にしなければなるまい。
「白妙、起きて」
声をかけても、白妙はわずかに唸るだけで目を覚ます気配はない。
有仁と白妙を隔てているのはたった襖一枚だ。それも今は開けられている。一歩有仁が足を踏み入れるだけで、そこは白妙の部屋だとわかるほどに彼女の香りに満たされている。
以前は、この距離を詰めることができなかった。けれど有仁はもう躊躇わない。
「白妙」
ぺちぺちと白妙の頬を軽く叩きながら声をかける。「ん」と声を漏らして白妙は薄く目を開けた。
「おはよう。いいかげんに起きないと昼になるよ」
有仁と目が合うと、白妙は勢いよく起き上がった。有仁は慣れた様子で白妙との衝突を避けた。有仁が枕元まで歩み寄って白妙を起こすとき、決まって彼女は勢いよく起き上がるのだ。おかげで最初は額同士をぶつけていた。
「おはよう」
起きた白妙にもう一度告げると、白妙はほんのりと頬を染めて「おはよう」と返した。
「……最近有仁、よく起こしに来るよね」
「それは、白妙が起きるの遅いから……それに起こしに来ているのは前からだけど」
「でも、前は……」
白妙はぽつりと呟いたが、その後は口を噤んでしまった。しかしその先に続く言葉が、有仁は手に取るようにわかった。
「俺は、もう躊躇わないよ」
白妙に手を伸ばすのも、触れるのも、寄り添うのも。有仁がふわりと微笑みながら言い切ると、白妙は顔を真っ赤にして口籠る。
冬から春にかけて、有仁は背も伸びた。日々稽古を欠かさないためか、しなやかな筋肉もついて、少年と呼ぶのは相応しくないかのようだ。武の里のいかつい男たちに比べると、やはり細身であるのに変わりないが、彼は彼なりに強くなろうとしているのがわかる。
「そういえば白妙、今日は何か予定ある?」
朝餉の準備を、と立ち上がった有仁は、天気を聞くくらいに自然に問うた。
「今日? 何もないけど……」
「それなら、少しだけ俺に時間をくれる?」
「いいけど、どうして?」
わざわざ確認をとるほどでもないだろうに、と白妙は首を傾げた。有仁は少し照れくさそうに笑って、
「見せたいものがあるんだ」
眩しいくらいにしあわせそうに、言った。
ほろりほろりと新緑を覗かせる山の獣道を、有仁は白妙の手を引きながら歩いた。こうしていると、一年前を思い出すな、と口元を緩めた。
夢占の里から逃れ、武の里にやってきた有仁を連れ戻そうとする男と一戦を交えたあと、武の里へ引き返そうと白妙の手を引いて走った。自分でも驚くほどに必死だった。感情が大きく振るえない自分が、こんなにも懸命になれるのか、と。
もう幾度も通った道だ。白妙も行き先は気づいているのだろう。わざわざ問いかけてはこなかった。
「今日はあたたかいね」
新緑を芽吹かせた木々の合間から空を見上げ、白妙が微笑んだ。春の淡い青空は、今にも溶けてしまいそうな色合いを見せている。
「もう、春だから」
山の麓では、色とりどりの花が咲いているだろうか。山の春は遠い。しかし冬の厳しさを乗り越えて、しっかりと豪華絢爛の春を告げる。
そのはじまりの
「有仁と出会って、何年目だろうね」
何気ない白妙の言葉に、有仁は二年目だよ、と答えそうになった。かつての出会いを覚えていない白妙にとっては、二度目の春だ。しかしどうだろう。二年目のこのときに、何年目だろうかなんて問いをするのは不自然ではなかろうか?
「……白妙?」
「教えてくれるって約束だったけど、思い出したんだ。母上の亡くなったとき、あの桜のところで会った子でしょう?」
かつて、幼い有仁が視た夢が蘇る。
――わぁわぁと、女の子の泣いている夢だった。
どうしてそんなに泣くのだろうと、夢に視た未来が初めて気になった。満月の夜、監視している父親の目を盗んで家を抜け出した。
『気持ちをかくしてしまうことは、つらいことだわ』
『つらいことをつらいと知らないのは、もっとつらいことだわ!』
涙で目を濡らしながらも、有仁を射抜くように見つめた女の子だった。
『か、かあさまが。白妙は武の一族の子なんだから、簡単に泣いてはダメだって』
――しろたえ。
会話の中で漏れ聞いたその名を刻みこんで、武の里の人なのだと忘れないように心に握りしめて、ようやく、また出会えた。それが、昨年のこと。
「私ったら子どもだったから、てっきり桜の精だったのかしらなんて思っていたんだけど。でも納得した。有仁とは初めて会った気がしなかったんだよね」
当たり前だよね、とくすくすと笑って白妙は呟く。
「有仁は私が有仁を救ったと言ってくれたけど、でも私もそうだよ。あのとき、有仁がいたから前を向けた。泣き続けるだけじゃなくて、自分の足で立てたの」
じわりと言葉が胸に沁みる。いとしくていとしくて、苦しかった。爪先からしびれるような歓喜が湧き上がる。胸の奥底から息ができないくらいのいとしさが津波のように襲い掛かってくる。
理性的な有仁の身体は本能の赴くまま動くことを許さず、ただただ喜びに震えていた。
「あ」
木々の合間から見えた光景に、白妙は声を漏らした。有仁は頬を緩めて、歩く速度を速める。
ふわりと、あたたかな風が白妙の髪を揺らした。凍える冬の名残などどこにもない。香るのは、かすかな花の香りだ。
天を覆うほどに咲き乱れる桜花。薄紅の天井のようだった。
「……満開だ」
ほう、と感嘆の息と共に白妙が呟いた。咲き綻んだばかりの初々しい桜の花は、やわらかな風に吹かれても散ることがない。新緑とともにある薄紅の花が、春の訪れを堂々と謳っている。
「昨日から今朝にかけてかな。必ず、満開になったら白妙と見に来ようって決めていたんだ」
きっと何度も何度もこの道を行き来していたのだろう。でなければ、こんなに絶妙な時期にこの桜を眺めることはできないはずだ。桜は命の短い花で、風の強い山の上ではすぐに散ってしまう。
「うれしい。ありがとう、有仁」
ふわりと微笑む白妙には、桜の花がよく似合っていた。
とても、よく似合っていた。
「……白妙」
有仁が、白妙をまっすぐに見つめて名を呼ぶ。かすかに震える低い声には、緊張が滲んでいた。
「なぁに?」
繋いでいる手から、有仁の緊張も震えも白妙には伝わっていた。けれどだからこそ、白妙はいつも通りに応えた。
「俺は、こんな自分が嫌いだったから。だから、今以上を望むことなんて許されないと思っていた。今のままでも、とても、本当にとても、しあわせだったから」
うん、と白妙が小さく相槌を打つ。今のままでのしあわせだ、という有仁の言葉は、そのまま白妙の言葉にもなる。
「それでも、許されるかなって、思えるようになった。手に入れてはいけないって、俺なんかでは相応しくないって、思っていたけど。共にあることを望んでいてくれるのに、俺が手を伸ばさないのはおかしいんじゃないかなって」
有仁が口を開き、言葉を呑む。
乞うような目で、有仁は白妙をまっすぐに見つめた。
「俺は、白妙がすきだよ」
すきだよ、と小さくまた有仁は繰り返した。
そして一度目を閉じて、ゆっくりと開けた。その瞳には、強い意志が宿っている。炎みたいだ、と白妙は思った。
「俺の、妻に、なってください」
「……はい」
考えるよりも早く、白妙は答えていた。
ぱちりぱちりと目を瞬かせ、有仁が告げてきた言葉をすべて咀嚼する。じわりじわりと有仁の炎が胸に宿り、あたたかかった。熱が頬にのぼる。
「はい。よろこんで」
薄紅の桜の花が綻ぶように、白妙は咲った。
淡い春の空に、薄紅の山桜が枝葉を伸ばす。満開を迎えた桜の花が、祝福するかのように一瞬の強い風に吹かれて花弁を落とした。ふわりふわりと舞う花弁に包まれた白妙は、きれいだと、有仁は思った。
世界でいちばんきれいだと、思った。
はらり、はらり。
桜が舞う。
くるくると小さな花弁を空に躍らせて、春を謳う。
天高く枝葉を広げた山桜が、永遠を示しながら不変をささやく。
〈了〉
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