清秋のみぎり


 しあわせそうに笑う女が、今日も夢の中で有仁を苛む。



 飛び上がるようにして起きて、有仁は荒い呼吸のまま褥の上で握りしめられた自分の拳を見つめた。額から汗が流れ落ちる。


 ――悪い、夢だ。


「……たちが悪い……」

 はぁあ、と重い息を吐き出して、有仁は頭を抱える。

 しばらくそうしていると、じんわりと身体が冷えてくる。もうすっかり秋も深まり、色づいた葉がはらりはらりと舞っている頃だ。紅葉した山々の景色もまたうつくしい。

 秋の日の早朝は、冷たい空気が山を覆っている。じきに吐き出す息も白くなるだろう。

 のそりと起きると、寝間着のまま井戸の水を汲み上げる。冷えた井戸水で顔を洗うと、すっきりと頭が冴えてきた。

 夢に惑わされるな、と自分に言い聞かせて有仁は長く息を吐き出した。

 夢占の告げる未来は、絶対じゃない。必ずやってくる未来なんてない。だから、あれも、ただの幻だ、と。


 近頃、有仁を悩ませているのは夢見だけではなかった。


「有仁、おまえ生まれはいつごろなんだ?」

 稽古の合間に、定明が問うてきた。武の里に来たとき、有仁は十四歳で、あと一年で成人という頃だった。つまりはもう間もなくで一人前として扱われる年齢になるのだ。

「……冬、だけど」

「冬って、おまえすぐそこじゃねぇかよ! もっと早く言えよな、祝い事なんだからさ」

 秋も深まり、あとは冬将軍の到来を待つのみとなっている。定明は有仁の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわして「盛大に祝わないとな」と笑った。

「別に、たいしたことじゃないだろ」

 有仁にしてみれば、ただひとつ年をとるだけだ。夢占の里でも、成人は大きな意味を持たない。力がある者は何歳であろうと夢を視ることを強要される。力のない者は、成人を前にいつの間にか消えているのが常だ。

「おまえなぁ、成人すれば嫁さんをもらえるようになるだろ。いつまでも白妙を待たせるなよ」

 当たり前のようにそう言う定明に、有仁は意味が分からずに言葉を探した。嫁と白妙が何故結び付けられたのか。

「……なんで、そこで白妙が出てくるの」

 そもそも有仁は嫁がどうのなど、これっぽっちも考えていない話だ。ただ生まれ育ったあの里から逃げ、白妙と共に武の里で暮らすことを許された。それだけでしあわせなのに。そして彼女を守ることができるのなら、有仁は充分過ぎるほど満たされる。

「……え。だっておまえ、白妙を嫁にもらうんだろ?」

 定明が呆れたように問いかけてくるので、有仁は顔を顰めた。

「そんな話はしてないけど」

「おまえ……一緒に暮らしておいて何言ってんだ」

「俺と白妙は、そういうのじゃないよ」

 地面に落ちた葉を見下ろしながら、踏みしめる。かさかさという乾いた音がした。

 白妙と有仁がともに同じ家で二人暮らしているのは、有仁が武の里へ来たときに族長である薫子がそう采配したからだ。

 白妙との再会を望んでいた有仁にとってはありがたい話だったが、下心などはまったくといっていいほどない。他の里の者にも白妙とは恋仲なのだろうと聞かれたが、そのたびに有仁は否定していたはずだ。

 それなのに、どうしてそんな話が当たり前のように出回っているのだろう。

「俺たちは……なんていうか、家族みたいなもので」

 定明ははぁああああああ、とわざとらしく長いため息を吐き出して、有仁の頭を小突いた。

「家族に、これからなるんだろうが。女を待たせる男はかっこ悪いぞ」

 だからそういうものではない、と有仁は思ったが口を噤んだ。これ以上何を言っても、定明は納得しないだろうと思ったからだ。

 苛立ちに似た感情は、秋風の冷たさで少し落ち着きを取り戻す。

「あ。そういえば、族長がおまえを呼んでいたぞ?」

 今日はここで切り上げだな、と定明が木刀を片づけ始める。

「族長が……? わかった」

 族長の薫子からは日ごろからよく呼び出される。何か困ったことはあるかと問われることもあるし、使いっぱしりにされることもあるので、今日はどちらだろうか、と有仁は首を傾げた。

 族長の家の前では、有仁の姿を見つけるなり嫌そうな顔をする子どもがいた。薫子の息子の弥斗である。有仁が里へ来た時から、何故か有仁を嫌って威嚇してくるのだ。

「なにしに来たんだよ有仁」

 こちらを呼び捨てにしてくるのにはもう慣れたし、生意気そうな弥斗の性格もこの年頃であるならしかたないだろうと思う。

「族長に呼ばれたんだよ」

「はんっ! 何かやらかしたんだろ!」

「何もしてない」

 少なくとも有仁は身に覚えがない。以前は武の里に関わることを夢に視たとき、直接告げるのが面倒で文を書いて族長の家にこっそりと届けていた。もちろん誰の仕業かすぐに知れて、薫子に呼び出されるので今はやっていない。

「弥斗、うるさいよ! 有仁と話があるから余所へ行ってな」

「……はーい」

 薫子が戸口から顔を出して弥斗を追い払う。有仁をちらりと見ると「入りな」と中へ促した。これは使いっぱしりの方かな、と有仁は考えた。

 しかし予想は見事裏切られた。

 薫子は煙管をふかしながら、黙り込んでいる。有仁も薫子の向かいに正座したまま、何か話題を作るべきだろうかと考え、結局何も思いつかずに黙っている。こういうとき話し下手で困る。

「――有仁」

 薫子はゆっくりと口を開いた。

「あんた、いつごろ白妙と祝言を挙げるつもりなんだい?」

 ――聞き間違いだろうか。

 有仁は表情をなくして能面のような顔で、薫子を見返した。

「冬にはあんたも成人だ。まぁ成人してすぐに結婚となると、早いっちゃあ早いかもしれないが……どうせ一緒に暮らしているんだ。形をはっきりさせてしまったほうがいいだろう? うちにも準備ってもんがあるしね」

「……何の話?」

 ついさっきも定明から聞かされた話と似ている気がするが、それよりも遥かに話が大きい。

「……結婚する気はあるんだよね?」

「白妙と? 俺が?」

 他に誰がいるんだい、と薫子は少し苛立ちを滲ませて答えた。

 苛立ちは有仁にもあった。まったくどうして、有仁や白妙を無視して周囲はそんな話を繰り広げているのだろう。

「ありえないよ。俺は白妙を妻にする気はない。そもそも誰とも結婚するつもりないし」

 きっぱりと有仁が答えると、薫子は驚いて目を丸くする。そしてまるで内緒話でもするように有仁に傍に寄ってきて声を潜めた。

「白妙を好いているんだろ?」

「もちろん」

 その問いの答えは、是しかない。

 有仁にとっての白妙は世界のすべてといっても過言ではない。はじめて出会ったあの日、心も何もかも奪われたに違いないのだ。春雷のように激しく、落ちてきた。

「……けど俺なんかは、白妙にふさわしくないよ。白妙は俺にとって太陽みたいなもので、眩しくてとても手を伸ばせない」

 傍にいられるのなら、それでいいのだ。ただ傍らで彼女を守ることができるのなら、それだけでいい。

 有仁は至極真面目にそう答えたのだが、薫子は眉間を押さえ溜息を吐き出した。

「……あのねえ、あの子は太陽でもなんでもない、好いた男と一緒になりたいただの女の子だよ」

 呆れたような言葉に、有仁は納得できない。

 ――好いた、男。

 その言葉は何故か有仁の胸を刺す。ちくりとわずかに痛んだ胸を無視して、有仁は口を開いた。

「好いた男がいるなら、なおさらだ。俺が邪魔ならあの家を出てひとりで暮らしても……」

「まったく……あんたって子は」

 薫子は苦々しく声を吐き出し、頭を抱える。

「もういいよ。あとは本人たちでどうにかしな。やってられるか」

 さっさと帰れという薫子に首を傾げつつ、有仁は退出した。

 戸を開けてすぐ、白妙がいてぶつかりそうになる。

「っと、白妙?」

 白妙は有仁に何か言おうと顔を上げ、口をぱくぱくさせて、結局何も言わなかった。おしゃべりな白妙が言葉を噤むというのは、珍しい。

「どうかした?」

 具合でも悪いのだろうか、と有仁が心配そうに見つめると、白妙はぱっと笑顔を作って答える。

「ううん。なんでもないの。お昼ができたから有仁を探していて、叔母上のところにいるって聞いたから……もう、用はいいの?」

「うん、済んだから」

「……そっか」

 白妙はふわりと笑って、有仁の数歩先を歩く。白妙の、背中の中ほどまで伸びた黒髪が、さらさらと秋風に揺れた。切なげな秋の空気は、こんなわずかな距離感さえも果てしなく遠いものに感じさせる。

 このとき何故か、有仁は白妙を遠く感じた。




 朝の稽古を終えて、家に帰るとすぐに白妙を起こす。朝の苦手な白妙を起こすのは、もはや有仁の日課となっていた――はずだった。

「おかえり、おはよう有仁」

 有仁は目を丸くする。最近は朝方がますます冷え込むようになった。白妙の性格からしても寝起きの悪さからいっても、なかなか布団から出られないだろうと思っていたのだ。事実、わずかに冷え込み始めた数週間前は布団にしがみついて離れなかった。

「おはよう白妙。……早いね?」

「うん。早く目が覚めたの。朝ごはんも準備しておいたから、食べようか」

 起きて身支度を整えただけではなく、朝餉の準備まで。有仁は晴れた秋空を見上げながら早くも初雪だろうかと真剣に思った。

 春に有仁がこの里に来て以来、稽古から帰った有仁が朝餉を準備しなかった日はなかったはずだ。

 たまたまだろうか、と思った。しかしそれも、一日二日、一週間と続くとたまたまなどではない。

 早寝早起きは三文の徳というものだし、これといって問題ではない。ただ少し、有仁の胸の内で寂しさが滲むだけだ。無防備に眠る白妙には悩まされもするが、自分だけに許された特権のようにも感じていた。

「白妙は、最近早起きだね?」

 味噌汁をよそう白妙に話しかけると、白妙は「うん」と答えた。

「あんまり有仁に頼りきりっていうわけにもいかないでしょう? もともと、一人で暮らしていたときはちゃんと起きていたの。つい、有仁に甘えちゃって」

 そのまま甘えていてもいいのに、と有仁は思う。

 白妙が眠りたいのなら、好きなだけ眠っていていいのに。稽古のあとの朝餉の準備なんて苦に感じたこともない。帰ってきたときに白妙が「おかえり」と迎え入れてくれるのも嬉しいが、無理をしているのであれば必要ない。

「有仁も、私が迷惑かけていたら遠慮なく言っていいんだからね?」

「白妙に迷惑をかけられたことなんてないよ」

 かけられても迷惑なんて思わないよ。有仁が即答すると、白妙は言葉を詰まらせた。少し頬を赤く染めて、味噌汁の入ったお椀を突き出す。

「……有仁は私を甘やかしすぎだよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 それきり白妙は黙って朝餉を食べ始めたので、有仁も話すのをやめた。白妙が何も話さないと、途端に静かになる。そういえば会話が少なくなったのも、白妙が早起きを始めた頃と同じくらいからだ。

 ――何かしたのだろうか。何か、してしまったのだろうか。

 突然陰りを見せた太陽に、有仁は動揺する。いつもどおりのようで、どこか違う会話。白妙は以前ほど有仁の傍に来なくなった。夏ごろには、暑いといっても傍に寄ってきていたのに。あの頃には冬になったら寒さを理由にもっとくっついてくるんじゃないだろうか、なんて心配さえしたのに。

 ――嫌われてしまったのだろうか。

 優しい白妙は、それを言い出せずにいるだけなのだろうか。よくない想像ばかりが頭を占める。変わらず夢見は悪いままなので、有仁の顔色は悪かった。もとより色の白い少年なので、屈強な男ばかりの武の里だと、今にも消えてしまいそうな淡い雪のような印象が残る。

「……有仁、具合悪い?」

 白妙がふと有仁を見つめて問うてくる。有仁の顔色に気付いたのだろう。有仁はふるふると首を横に振った。

「大丈夫だよ」

「本当に? 辛くなったらちゃんと休んでね?」

 心配げな白妙の声に、有仁の心が浮上する。なんて単純なんだろう、と有仁は笑った。


 白妙を好いているんだろ?


 先日の薫子の問いが蘇る。

 もちろん、好いている。恋うている。白妙に対する感情を示すのに、恋以上に的確な言葉は見つからない。




 満月の夜は、いつも以上に明確な夢が訪れる。

 その日有仁が視たのも、ここ最近ずっと有仁を苛む夢だった。いとおしく喜ばしく、恋しい夢。しかしそれは己が望むには、あまりにも大それたもの。


 美しい黒髪が、桜の花の下でふわりと揺れる。

 振り返った女は嬉しそうに微笑んで有仁の名を呼んだ。

「    」

 有仁が名を呼び返すと、女はしあわせそうに笑い、有仁の腕に飛び込んでくる。その肩を抱きしめてやると、女は有仁の胸に頬を埋めて甘く囁くのだ。


「あいしてる」


「だいすきよ」


「有仁」


 夢の中の有仁は嬉しそうに微笑み、女の髪を撫でる。そして乞うように愛の言葉を囁く女の耳元で、有仁も同じ言葉を同じだけ返すのだ。



「あいしているよ、しろたえ」


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