2月14日
※如月視点
かぐわしいダシの香り。
トントンという包丁の音で、俺は目を覚ました。
まだ日の出前だ。すぐに起き上がるには、かなり寒い。あるはずのぬくもりが隣にない。
あれ? と思う。目覚ましが鳴るより、五分ほど早い時間だ。
結婚してからずっと、出勤の日はパン食と、二人で決めていて、朝は主に俺が作っている。
いっしょに出勤するとなると、女性の方が身支度に時間がかかるから、そのほうが効率的なのだ。
もちろん、桔梗に家事をやらせることもあるのだけど。
「おはよう」
起き上がって、台所に行くと、エプロン姿のマイがにっこりと笑いかけた。
窓から差し込んでくる、優しい朝の光。旨そうな香りが漂う。
ファンヒーターの火が燃えていて、部屋は既に暖かった。
ジュワッと、フライパンが音をたてている。
「おはよう……どうした?」
挨拶を返しながら、訊ねるとマイは日めくりカレンダーを指さした。
『二月十四日』
日付を見てもピンとこない。
バレンタインデーではある。
しかし、マイが朝食を作っている理由にはならない。今日は二人とも出勤だし、二人の何かの記念日、というわけでもない。そもそも、マイは記念日というものに割と淡泊な方だ。
「見て!」
マイは、鍋から取り出したと思われる、ダシガラを俺に見せる。
「煮干し?」
「うん」
嬉しそうに頷くマイ。
煮干しがどうかしたのだろうか?
「今日は、煮干し記念日なんだって」
マイは微笑みながら、朝食の配膳を始めた。
「今年は仕事が忙しくて、チョコレートも市販品にしちゃったし。今日の夜も社食になりそうでしょ。せめて、朝食だけでも美味しいお出しをとって、きちんと作ったものを食べたいなと思って」
テーブルの上には、ご飯と卵焼きとみそ汁。青菜のお浸しに納豆を添える。
共働きで、ほぼ一緒にいつもいる。だから、マイがここ数日、疲れているのも知っている。
だからこそ、この朝食に込められた、彼女の優しさが理解できた。
「ありがとう、いただくよ」
俺は椅子に座り、手を合わせた。
田中舞に出会った頃の俺は、いつも何かに飢えていた。
力こそ、誰にも負けないほどに持っていたものの、心は折れそうなほどに弱かった。
人に言えぬ職業。誇れぬ力。認めてもらえぬ努力。
そんな鬱屈をためていた俺を、救ってくれたのは、田中舞の笑顔だった。
人に言えなくても、直接はもらえなくても、俺はひとの笑顔を守っている。
他人に誇ることはできないけれど、俺自身が誇ることはできる。
「美味しいな」
みそ汁は、滋味深い味がした。派手さはないけれど、心に染みてくる旨さだ。
マイと出会い、俺の人生は変わった。
こんなふうに、優しさに満ちた朝があるなんて、俺は知ろうともしていなかった。
「煮干しダシ、美味しいよね、やっぱりダシが基本なのかも」
クスリ、とマイが笑う。
「そうだな。マイみたいな味だな」
「……どういう意味?」
「毎日食べたい味ってこと」
「……馬鹿言ってると、遅刻するよ」
マイが、ほんの少し、頬を赤らめる。
その仕草がとても可愛らしくて。
思わず身を乗り出して、俺は彼女にキスをした。
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