第59話「生知らず、死又知らず」

「伊勢さん、話があるの」


 食事中の事だった。絶が一人、車椅子で伊勢のテーブルにやってきた。




◇ ◆ ◇


= 10分程前=


 近くのテーブルで食事をしている伊勢を見て驚きを隠せない絶。謙信に尋ねると、伊勢が同じ船に乗っていることを知っていたようで、さらりと「そうか」と言ったきり、何も話そうとしない。



 謙信には、部屋に忘れ物をしたと嘘をつき、取りに行ってもらおう。

「謙信様、アメリカで購入した大切な手帛ハンケチを部屋に忘れたので取りに行ってくださらない? 」


 絶の要望に応えるため、謙信は、この場を離れしばらく帰ってこない。



◇ ◆ ◇


「甲板デッキで話せないかしら」


 伊勢が私を見ても驚かないのは、この船に乗っていることをすでに知っていたからなのね。謙信様と伊勢は私の知らない所で会っているということなんだわ。



「絶さん、足の手術、成功したんですってね。おめでとうございます。……わかりました。じゃ、そこでお話をお聞きします」


 いつもの絶の様子とは違い、なぜかひどく怯えているように見える。過去の出来事が頭をよぎり、嫌な予感もするが、ひどく憔悴し怯えている絶を前に承諾してしまう。




「絶は相変わらずだな」

 信玄が嘆く。


「俺も一緒に行こう。絶は何を考えてるか、わからないからな」

 小声で伊勢に伝えると伊勢は小さく頷いた。



 伊勢が絶の車椅子を押しながら、信玄と共に甲板へ向かう。



「信玄様はもうお戻りになってください。女同士の話ですから」

 甲板への入り口までたどり着いた時、強い口調で絶が信玄に指図する。



「おい、伊勢。絶と二人で大丈夫なのか?」

 心配になり、伊勢に小声で確認すると「心配しなくても大丈夫」と笑顔で信玄に答える伊勢。


「わかった。何かあったらすぐに言えよ」


 甲板に進んで行く後ろ姿を見送りながら、いつもとは違う様子の絶に不吉な予感を感じた信玄は、二人に気づかれないようにそっと少し離れた場所で伊勢を見守ることにした。




 伊勢は絶に言われる通り、甲板の先端まで車椅子を押してきた。


「伊勢さん、ここまで来たらもういいわ。誰にも邪魔されないわ」


 絶は覚悟を決め、今にも泣き出しそうにゆがんだ顔で伊勢に話し出す。


「あなたも知っての通り、私はアメリカで手術を受けたの。手術は成功したから、じきに歩けるようになるわ。でもね、伊勢さん。私が歩けるようになっても……あなたに謙信様は絶対に渡さないわよ」


「えっ、絶さん。言ってる意味がわからないわ。絶さんは謙信様と結婚するんじゃなかったの?」


「私はずっと謙信様と一緒にいたい。でも謙信様に結婚はできないと言われてるの。あなたが生きてる限り、謙信様は私と一緒になってくれないのよ」


「どういう事なの?」


 絶の急な告白に伊勢の頭の中は真っ白になる。


「謙信様は怪我の責任をとって、私のそばに一生いてくれる。でも……どんなに私が願っても心だけは嘘をつけないと言って結婚は絶対に無理だと断られたわ。あなたがいるからよ。わかるでしょ。謙信様は今でもあなたのことを愛しているの。伊勢さん、私はあなたが生きてる限り謙信様と結婚できないの。あなたが憎い。あなたが邪魔なの。……ねぇ、伊勢さん。お願いだから、私のために死んでくれない?」


「何を言ってるの、絶さん」


「あなたがいるから、謙信様は私と結婚してくれないのよ。あなたがいなくなったら、きっと私と結婚してくれるわ」




 車椅子に座る絶の手が……思い切り伊勢を押し倒す。


「……キャー ・・・やめて……!! 」


 ザボーン・・・ザバーン!!


 無防備に立っていた伊勢は、船の揺れとともに、海に投げ出される。






「……うぅぅ、苦しい。誰か助けて。息が……息が……できない」


 ブクブクと泡と共に沈んでいく伊勢。



 呆然としている絶。



「人が落ちたぞ〜」


「救助の小舟を出せ」


「いかりを落とせ」

 

 甲板は大騒ぎとなる。




「……伊勢が落とされた! 誰か〜、誰か〜、伊勢を助けてくれ〜」


 すべてを見ていた信玄が甲板に走り寄ってきて叫んでいる。



 騒ぎを聞きつけて、謙信も甲板に駆けつける。



「なんだって。信玄!! 今……なんと言った」

 胸元を押さえつけ、もう一度、信玄の言葉を聞き返す。



「伊勢が……伊勢が、絶に突き飛ばされ……海に落ちた」


 聞き終えると同時に、謙信は海に飛び込んでいた。



 ザブーン・・・・



 伊勢、死ぬな!!


 伊勢……俺がお前を助ける。





 どれくらい深く沈んだのか……もう、息をすることも出来ない。そうだ、エミリーが言ってたな。ここの海に落ちたら助からないって……。


 伊勢は沈みゆく身で、海の中から空を見上げ、水面に差し込むキラキラと輝く陽の光を見ていた。



 幻なのかもしれない。光の先に愛しい謙信様が伊勢に向かって手を差し伸べている。


「……謙信様」


 差し出された手が伊勢の腕をつかまえ、やさしく引き上げながら、体を抱き寄せる。深い海の底まで謙信の肺に溜められていた空気を惜しげなく伊勢の肺に流し込む。謙信は、なんのためらいもなく伊勢へ口づけをした。

 


 薄れる意識の中、体はキラキラと輝く光に向かって押し上げられてるのがわかる。



「いたぞ……引きあげろ」


 謙信は最後の力を振り絞り、伊勢の体を男たちへと引き渡す。


「女は引き上げたが、男が沈んで行くぞ。早くしろ。男が流されて行く」


 




 一人引き上げられた伊勢は、意識を失っている。

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