武士道はひとつではない
武士道=葉隠という風潮があるが、葉隠だけが武士道ではない。
そもそも武士道は単一のものではない。少なくとも宮本武蔵先生の武士道と葉隠の武士道は相容れない思想である。
師曰く
「武士たるものハ、おのれ/\が分才ほどは、
兵の法をバ勤むべき事也。
大かた武士の思ふ心をはかるに、
武士ハたゞ、死と云道を嗜む事と
覚ゆるほどの儀也。
死道におゐてハ、武士ばかりに限らず、
出家にても女にても、百姓以下に至迄、
義理をしり、恥をおもひ、死する所を
思ひきる事は、其差別なきもの也。
武士の兵法をおこなふ道ハ、
何事におゐても、人にすぐるゝ所を本とし、
或ハ一身の切合に勝、或ハ数人の戦に勝、
主君のため我身のため、
名をあげ身をもたてんとおもふ、
これ兵法の徳を以てなり。」
つまりは、「物事に必死になって取り組むのは何も武士の専売特許じゃ無いよ? 責任持って職務に当たるのは当たり前の事でしょ?」
って事で、五輪書 地の巻にて既に「武士道とは死ぬ事と見つけたり」を批判してます。
更に葉隠では「主君の役に立たない死は犬死だと申すものもいるが、これはただカッコつけているだけで本当の武士道では無い。武士であればなりふり構わず命令に従え」
と言って居ますが、これは真っ向から武蔵先生の意見と対立するところで、武蔵先生としては、疑問に思うところあれども主君に物言いを付けない時点で人材としてはアウトだと云います。間違いがあれば、死をも覚悟の上で主上に進言する姿が武蔵先生の言うところの必死の心得であり、その上で生き残る道を選ぶ事を説きます。
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