3 官僚サイボーグ化計画

 官僚による不祥事が相次いでいることから、2038年、内閣は官僚サイボーグ化計画の断行を閣議決定した。

 これは官僚をサイボーグ化することによって、その一切の特権的な裁量権限を剥奪し、官僚を政治の真の手足とし、また官僚の指揮下に入る官吏を国民の真の僕とする計画である。

 今後、官僚サイボーグ化計画に基づいて、各省庁設置法が定期的に改正され、定数が漸次に削減されていく見込みである。


 サイバネティックスはサイボーグ(サイバネティック・オーガニズム)の語源として知られている。生物の行動を環境からの入力(刺激)と環境への出力(反応)のシステムとして記述することにより、知能を数理モデル化し、コンピュータによる機械の自動制御を可能にした。サイバネティックスがなければ今日のロボットや人工知能の発展はありえない。

 サイバネティックスは生命をシステムとしてとらえる一般システム理論から派生した理論である。一般システム理論は生命科学、自然科学のみならず社会科学や政治哲学まで学問の全分野に敷衍される普遍的な理論である。同様の派生理論の一つにオートポイエーシス(自動書記理論、自己模倣理論)がある。オートポイエーシスは生物の行動を刺激と反応のシステムとせず、神経組織には入力も出力もなく、自己模倣的に作動しているととらえる。

 人間の社会的行動ないし社会組織を理解する上でサイバネティックスを援用するのがソシオサイバネティックス、オートポイエーシスを援用するのがソシオオートポイエーシスである。


 ちなみに古い話になるが、2017年の流行語大賞になった「忖度(そんたく)」はオートポイエーシスとして理解することができる。その発端は愛媛県の加計学園獣医学部新設問題、大阪府の森友学園国有地払い下げ問題、東京都の豊洲市場の汚染土壌問題である。いずれも首相や都知事の意向を官僚が忖度したのではないかというのである。

 公務員には官僚(キャリア、上級公務員)と官吏(ノンキャリア、下級公務員)の別がある。

 官吏はサイバネティックに行動するシステムである。すなわち申請という入力があれば許可(又は不許可)という出力を返し、事件という入力があれば検挙という出力を返す。官吏はサイバネティックなシステムであるから、ロボットで代替することができる。すでに市(区)役所の窓口業務の多くがロボット化(自動販売機化)している。

 これに対して官僚はオートポーエーティックに作動するシステムである。これを官僚の羈束(きそく)主義、あるいは前例主義と言う。官僚は意思決定の過程で、さまざまな圧力を受ける。政治家からも、首長や上司からも、右翼(やくざ)からも、左翼(市民団体)からも、業界や業者からも、官僚OBからも。しかし、官僚はあたかもこうした圧力がまったくないかのように、自ら定めた規則のみに従って、自己模倣的(前例踏襲的)に意思決定する。つまり入力も出力もないのである。

 もしも官僚が圧力に影響されてサイバネティックに(刺激反応的に)行動したらどうなるだろうか。政治家や業者からの圧力に屈して許認可の審査に手心を加えたり、情報を漏洩したり、入札や試験の結果を改ざんしたりしたら汚職である。右翼の圧力に屈したら行政暴力(ギョーボー)である。左翼の圧力に屈したら背任である。

 しかしながら、もしもなんらの圧力もないのに、たぶん首相(知事、市長)はこういう方向性を望んでいるだろうと勝手に推察して、あたかも圧力があるかのように慮って依怙贔屓したらどうなるだろうか。これが忖度の本質なのである。実際には圧力はないのだから、忖度しても汚職にはならない。しかし、結果的には首相(知事、市長)の意向にかなうのだから、忖度がうまくできた官僚は出世するだろう。あるいは忖度がうまくできそうな官僚をあらかじめ出世させておくだろう。

 こうして官僚は忖度という特技に磨きをかけ、次官(副知事、副市長)という頂点に向かって出世していくのである。


 忖度は短期的な意思決定だけではなく、長期的な政策の結果も支配している。

 学校教育における少人数学級という政策について検証してみよう。文部科学省が目標として公表している小中学校の少人数学級の目標値は1クラス30人であり、下限は25人である。都市部の多くの学校ではこの目標をまだ達成しておらず、過疎化して廃校寸前の農村部の学校では学年1人ということもあるだろう。格差は非常に大きいと言える。

 戦後の新教育制度の下、現在までの学生教員比(S/T比)の全国平均の推移を計算してみると実に興味深い結果が出る。1960年代頃まで、S/T比は小学校で35人、中学校で30人、高校で25人、大学で15人だった。学校のヒエラルキー(序列)にS/T比が対応していたのである。

 1970年代から、小中高ではS/T比が低下していく。大学は新設が相次いだことから教員不足となり、S/T比はいったん20人まで上昇し、その後は低下していく。そして2000年以降は、小中高大、さらに幼稚園、短大、各種学校まで、学校統計にあるすべての学校種別のS/T比が、15人に収束していく。この15人はS/T比の黄金律である。

 しかし、すべての学校種別のS/T比を一致させる必然性があるとは思えないし、文部科学省の政策目標は15人ではないし、15人がS/T比の理想だと主張している教育学者もいない。この15人にはなんらの意味もなく、文部科学省のオートポイエーシスの結果としてたまたま出てきた数値なのである。

 学校種別ごとに文部科学省の所管課は異なる。しかし長期的に見れば同じ官僚がさまざまな課に異動して、さまざまな学校を担当することになる。すなわち文部科学省の大多数の官僚が長期間にわたって自己模倣的な政策を継続してきた結果として、幼稚園から大学、各種学校まで、すべての学校種別のS/T比が15人に収束したのである。しかしなぜ、15人なのだろうか。おそらく戦後間もなくの大学のS/T比が15人だったからである。学校ヒエラルキーの頂点にある大学のS/T比を超えてはならないというモラルハザードがオートポイエーティックに作動したのである。しかもその作動が完成するまでには50年もかかったのである。


 忖度政治あるいは忖度行政が望ましいことかと言えば、大多数の国民にとってそうとは言えない。忖度は国民から見て不透明であるばかりではなく、官僚自身も忖度の本質を理解しておらず、前述のS/T比のように50年にもわたって人知れず作動を続けて意図せざる結果を生むことがあるからである。

 忖度は汚職ではないにしても、出世を期待した依怙贔屓であるとともに、意思決定の過程のはぐらかしである。それは誰も結果責任をとらない無責任主義につながる。無責任主義はキャリア主義(学閥や門閥)の安定化と結びつく。行政の閥化は政治との癒着を深める。閥が固定化されていれば政治家がターゲット(癒着相手)を決めやすいからである。うだつの上がらない(出世の見込みのない)官僚と癒着しても意味がない。

 政治と行政の癒着構造を脱構築するには、忖度の構造を脱構築しなければならない。しかしながら忖度に恩恵をうけている(共依存関係にある)政治家と官僚が、みずから忖度を脱構築しようとはすまい。

 不祥事が起こるたびに、官僚機構の自浄能力が問題とされ、おざなりな再発防止策が掲げられてきたものの、不祥事は繰り返されている。汚職はオートポイエーシスの完全性を揺るがすという意味で一つの脱構築である。だが実は汚職と忖度は表裏一体である。忖度とは汚職の再脱構築(汚職の安全な避難場所)なのである。

 このような認識に立つなら、忖度をなくすことによって汚職もなくすことができる。すなわち忖度という癒着の偽装構造の脱構築である。

 忖度の脱構築という改革を断行するために、官僚のオートポイエーシスを官吏のサイバネティックスで置き換えていくこと、すなわち官僚をサイボーグ化することが必要なのである。

 はたして閣議決定に参加した首相や閣僚の何人が、忖度の構造を理解していたかは知らない。選挙という洗礼を受けることなしに政治家以上の権勢をふるう官僚憎しの故だったかもしれない。しかし官僚サイボーグ計画は確かに閣議決定されたのである。

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