第40話
今日もお医者さんの検査があった。
お腹の赤ちゃんは順調みたい。わたしにはまだわからないけど壁さんが教えてくれた。
「うまいこと育ってるやで。この調子で来年の春まで行けたらええやで」
そうだねぇ。お腹の赤ちゃんのためにもいっぱい食べなきゃダメだよね。
「せやで。生まれた仔が男の子なら東京ダービー、女の子なら関東オークスか浦和桜花賞……」
ううん、そんな勝たなくてもいいよ。元気で丈夫に生まれて来ればそれでいいの。
「せやなぁ。まずは元気に生まれて来てくれんとやねぇ……」
少しだけ、ほんの少しだけ。
たるこの事が頭をよぎった。
夕方になって部屋に戻るのはわたしとエミちゃん。
シャーマンさんとアツコさんは夜も庭で過ごすことになった。
ふたりとも仲良しだから、きっと庭でもうまくやれてるんだろう。
わたしももうじき、夜も庭に出るってお兄さんが言ってたらしい。
庭で食べるお弁当はおいしいから、今から少し楽しみ。
何日かしたある日のこと。
部屋に戻ろうとしたら、エミちゃんは庭に残るって言い出した。
「今日からわたしもこっち側なのよ。シュシュの分まで青草食べててあげるから今日はおとなしく部屋に戻りなさい」
エミちゃんはそう言って水飲み場に向かって行った。
仕方ない。ひとりで行くしかないなあ。
お兄さんに引かれて部屋に戻る。
寂しいけど、ご飯食べてれば気は紛れるから。
……と思ったら、隣の部屋に知らない馬がいる。
誰だろう。見たことないし、どんな仔かも知らない。
仕切り板の窓からずっとこっちを見てて、なんだか怖くて落ち着かない。
「……あの、先輩?」
隣の馬が声をかけてきた。先輩?エミちゃんのことかな?
わたしはエミちゃんを探してあちこち見てしまう。
「せーんぱい、はじめましてです!」
隣の馬はこう呼びかけてきた。
「わたし、ダーリングって言います!ダーちゃんって呼ばれてるです!この間まで中央競馬で走ってたんです!」
やけに元気がいいと思ったら、この間まで現役だったのね。
ここに引っ越して来たのねと聞くと、元気のいい返事が返ってきた。
「あの、えっと、別な競馬場に行くことになって、その準備とかなんとかでしばらくお世話になるです!ダーちゃんをよろしくなのです!」
そういうことなのね。わたしも走ってた頃に里帰りしてたことあったし、そんな感じなのかな。
「少しちゃうけど、まあ馬からすれば似たようなもんやで」
壁さんが教えてくれる。
「ここからそう遠くない競馬場に引っ越しらしいが、それまでの間ここで預かることになったらしいやで。あんまり長くいるわけやないが、仲良くしてやるんやで」
そっか。わかった。
ひとりで誰も知らないとこにいるのは不安だもんね。わたしで良ければよろしくね。
小窓越しにダーちゃんに挨拶をした。
その夜、ダーちゃんはわたしの知らない話をいくつもしてくれた。
生まれたところのこと。競馬場のこと。そして競馬場に行くまで過ごしてたところのこと。
「競馬場に行くまでいたとこでは、頭のきれいなおじさまや美人のお姉さまにいっぱいお世話になったです。同い年の友達もいっぱいいて、すごく賑やかで楽しかったですよ」
ダーちゃんは懐かしそうな顔をして言う。
「そうそう、思い出しました!いっぱい走ってお金稼いで畑やるんだって言ってたお友達もいたです!あの仔どうしてるかなあ……」
ダーちゃんにとって、そこはすごく楽しかった場所に違いない。
わたしは幼稚園から競馬場に行くまでほとんど同じ仔たちと一緒だったから、そういうところがあるって知らなかった。壁さんは知ってる?
「思い当たる節があるやで。あそこにいたんやなぁ……」
壁さんも知ってるみたい。知らないのはわたしだけみたいで、少し悔しい。
わたしは草かごの牧草にかぶりついた。
明かりが消えて、いつものように横になる。
すると隣から「先輩どこですかー!?」と声がした。
あーごめんね。窓から見えなくなったんだね。
わたしは起き上がって小窓を見た。
小窓の向こうでダーちゃんが不安そうな顔をして立っていた。
大丈夫だよ。ここにいるからね。
そう言おうとしたら、ダーちゃんはホッとした顔をして「びっくりしたですよー」と言う。
そのうちダーちゃんは横になっていびきをかき始めた。よっぽど疲れてたんだね。
いきなりひとりで知らないとこに来てるんだもんね。疲れて当たり前だよね。
ここにいるから、安心してね。
わたしはダーちゃんの寝顔に語りかけた。
わたし、サラブレッド。
名前はシュシュブリーズ。
エミちゃんの苦労が少しわかった。
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