穏やかな荒波
僕の生活はあらたなローテーションを繰り返し始める。
大学病院での勤務は医師とはいえ勤め人である以上幾多ものストレスを抱えているが、まあ、人並みの範囲だろうと認識している。
その軸にセエノがアルバイトするバーへ週1・2回通う軸が加わった。
そしてもう一つ、休日、一緒にどこかへ遊びに行く軸も。
その際は僕とセエノと2人の時もあれば、そこへモヤも加わって3人の時もある。
彼女たちの大学祭の時、紅茶を飲みながら、僕がセエノにキスしたことをモヤには白状した。
「やっぱり」
それがモヤの反応だった。
僕はセエノの親友のモヤに不思議な友情を感じている。そしてモヤは僕とセエノの親密さを増そうとあれこれと世話を焼く。
「ねえ、タカイさん、セエノ。カンヌで賞取った映画ちょっとエッチなやつみたいだから2人で観てきたら」
とか、
「横浜の埠頭の倉庫の影のベンチね。完全な死角になってて色々やれるみたいよ」
とか。
けれども、当の僕とセエノはお互いがどういう関係なのか定義づけられずにいる。
僕はセエノを女友達とは見ていない。少なくとも友達ではない何かだ。キスをしたことは2人の関係を決める際の要素としてはあまり影響がないとう感覚は漠然とある。
セエノが戸惑っているのは、感じる。
『もしかしてこの
けれども、それを『恋人』と言い切れるほどセエノは自信過剰ではない。
第一この僕自身が、セエノの何に惹かれて一緒にいるのか、まったく自己分析できていない。
そんなある日曜日、僕とセエノとモヤの3人で池袋のサンシャイン通りをファミレスに向かって歩いている時、ちょっとした‘事件’が起こった。
50代はじめぐらいのスーツ姿の男性が2人並んで歩くすれ違いざま、
『キモ』
という小さな音声が聞き取れた。
2人とも身だしなみもきちんとしているし、何よりもごく真面目な顔の紳士だと見て取っていたので、軽く驚いた。
ただ、こういう非常識さが今時のこなれた中年なのかもしれないとも思った。
セエノを見ると一瞬表情がこわばったけれども、日常茶飯だという感じですぐに前を向いて歩いていた。僕もセエノが大丈夫そうなのでそのまま歩き続けた。
モヤは違った。
「ちょっと、オマエ」
彼女は背の低い方のスーツの肩を掴んでいた。
その男は掴まれた理由を理解した上でこう返した。
「キミのことじゃないから」
「じゃあ誰のことだよ」
もう1人の男も立ち止まり、モヤの所に近づいてくる。モヤは肩を掴んだまま最初の男に再度詰問する。
「わたしじゃないなら誰のことだよ」
「言わせたいのか」
「モヤ、いいよ。わたしいちいちそんなの気にしてないから」
セエノが近寄ってそう言った途端、男が逆ギレした。
「はあ? 『いちいち』だと? 何自分人間できてますみたいなこと言ってんだよ。このブスが!」
モヤの足が反応した。
「つっ!」
ハイヒールのつま先で男の脛を蹴った。
もう一度蹴ろうとすると男がいきなりモヤの頬を平手ではたいた。
瞬間、僕は反射で手を動かし、自分の右拳の中指に鈍痛と鼻水でもついたようなねっとりした不快な感触を覚えた。
僕の中指と手の甲の辺りについているのは唾液と血だった。
相手の血ではない。
モヤにビンタを食らわした男の前歯を殴った僕の拳が、彼の歯で傷ついて出血したのだ。
僕は生まれて初めて人を殴った。
次の瞬間、僕は左耳の付け根あたりの痛点をもう1人の男の右拳で撃ち抜かれ、思わず一時停止の『止まれ』の赤い標識にすがった。
男は両拳を組んで僕の後頭部を更に打ちつける。
「やめて!」
セエノが男を後ろから羽交い締めにしようとして振り放された。その隙に僕は男の腹に右拳を突き立ててみる。
「げええ」
うずくまる彼のワイシャツに僕の中指の血が擦り付けられた。
モヤは? と後ろを振り返ると、男が両手で口をおさえる背後から、尖ったヒールで突き刺すように肛門の辺りを蹴っていた。
痛快、とはこういう状況のことを言うんだろうか。
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