第八話 白百合とラッコ鍋
前回のあらすじ
突然のゴールデンな調理風景。
かわいいリスの画像をお手元にご用意いただくとより一層お楽しみいただけます。
それは勿論、どんなお肉でも大抵は熟成させた方がおいしいものですし、そもそも野生の動物のお肉より、ひたすらにおいしさを追求されて品種改良が続けられてきた経済動物たる家畜のお肉の方がおいしいのは間違いないですし、それを十分な設備と、厳選された調味料と、洗練された調理法で仕上げた方がどうやったっておいしいんですけれど、それはそれ。
調理工程や、それ以前の狩りや、自然の中での食事、そういったことが目には見えず言葉でも表せない微妙な違いとなって、私たちの舌と脳を楽しませてくれるのです。
まあそういうおためごかしみたいなのはさておいて。
野外でご飯っていいですよねー! と思うのは事実なんですけれど、それはそれとして不便なのも事実です。
事実って言うか、不便さだけが唯一真実の事実で、楽しさとか美味しさとか心の余裕とかはもうなんか表面的なものにすぎないということもできます。
寒さって無慈悲な現実なんですよね。
幌馬車の旅って結構楽しそうに見えますし、これでも最大限快適になるように準備もして工夫もしてるんですけれど、まあ物事には限度があるんですよ。
特に、この辺境においてはその不便さのけたがちょっと違います。
嘘つきました。
ちょっとどころじゃなく違います。
私とトルンペートは慣れてますけれど、ウルウがこの不便さに気づき始めたのは、お昼を終えて後片付けしてる時でした。
まず、洗い物が死ぬほど大変です。
寒いから面倒くさいというだけではありません。
汚れが落ちないし、落とせません。
その理由の一つに、まず水がありません。
雪というものをよく知らない人は、溶かして使えばいいじゃないかという人もいるんですけれど、そうもいきません。
雪って要するに氷なんですよ。それも間に空気をたくさん含んでいるので、熱が通りづらい氷です。
これをわざわざ洗い物のために火にかけて溶かすなんて、とてもとても。
同じ理由で、雪を飲用水にするのもおすすめできません。自分の命を削って飲むようなとても高価な一杯になるでしょう。
そして水を用意してもそこからがまた大変です。
洗い物をよくする人はわかると思いますけど、油汚れってお湯で洗うとすぐ落ちます。逆に冷水だと全然です。せっけんだって溶けづらく、泡立ちにくくなってしまいますから、なおさらです。
まあ雪を溶かすよりはまだ暖めるのも簡単なので、火にかけてお湯にしてもいいんですけれど、湯気が顔に張り付いた後放っておくと顔面が凍るので気をつけなければいけませんね。
なのでウルウは渋い顔しますけれど、鍋も皿もできるだけきれいにこそいで汚れを残さないようにして食事をし、洗う時も雑紙で拭って汚れを取るというのが現実的です。
その後は、なんなら幌から出して外に吊るしておいてもいいです。
野外に吊るしてたらほこりやらで汚れる、と思うかもしれませんがここは冬の辺境です。
細菌も虫も活動が絶えるような極寒の中の方が、衛生的ですらあります。究極の衛生って要するに生命のいない環境ですからね。
まあ、一時的なものですし、これは仕方のないこととウルウも納得しましたし、むしろ感心していたくらいです。
あまりにも環境が違うと、あらゆるものの条件が変わってきてしまうものなんですよね。
ただ、そんな不便な旅を楽しむ余裕があるウルウにしても、露骨に渋い顔をしたものがあります。
それがお風呂です。
お風呂と言うか、お風呂に入れないという事実です。
馬車の旅でも船旅でも、箱単位で買い占めた温泉の
理由はもうおわかりでしょう。寒いからです。寒すぎるからです。
たとえいくつもの問題を乗り越えてようやくお風呂に入れたとしても、出た瞬間に肌とその表面のお湯は極寒の空気にさらされて凍り付きます。
端的に言うと死にます。
珍しいことに往生際悪くあれやこれやと知恵を絞ったウルウでしたけれど、どうやっても無理なものは無理でした。
ウルウのしょんぼり具合と言ったら相当なものでしたよ。
下手するともう帰るとか言い始めそうなほど愕然とした顔してましたからねえ。
それでも諦めきれず、ストーブのすぐそばであぶられつつ、寒い寒いと言いながら温泉水で濡らしたタオルで体拭いてるのはもう執念と言うかなんというか。
なんでしょうかね。ウルウのおくには、一日お風呂入らないと死ぬ国だったんでしょうか。
私たちはそこまで潔癖ではないですけれど、まあでもウルウに付き合っているうちに確かにちょっと気持ち悪いなって言う感覚は覚えるようになってきたので、わからないでもありません。
それになによりお風呂入らないと露骨に臭いって言われますし、露骨に臭いって顔されますし、露骨に臭いって距離取られるので、素直にウルウにならいます。
三人で服脱いで、寒い寒い言いながらタオルで体拭いてる姿は、なんか秘境に伝わる謎の儀式めいていました。
まあ、そうやって頑張ってみたところで、どうしても、その、なんです。
こもるんですよね。
大きめの幌馬車とはいえ、荷物も積んでますし、ストーブにもたれるわけにもいきませんし、三人横になったらみっちりになっちゃうくらいなんですよ。
おまけに、ストーブは焚きっぱなしで、鍋に水も沸かしっぱなし。
寒くても換気はしないと死んじゃいますけど、その分ガンガンに焚いてるので、暑い、蒸れる、というわけで。
おまけに私たちはみんな
服は洗濯できませんけれど、そこはウルウが予備をたくさんしまい込んでるので残念もとい幸いなことに着替えはできます。できますけれど、それを着る体の方はごまかしがききません。
ていねいにていねいに、濡れタオルで体を拭いてはいますけれど、寝てる間にも汗はかきますし、狭い幌馬車に空気はこもりますし、こう、なんというか、その、ですね。
まあ、言わないのが乙女の気遣いというものですよ。
でもなんといいますか、普段はきれいににおいを消してしまうウルウの、ウルウ自身のにおいがですね。
「あがががががっ! 照れ隠しが痛いっ!」
「いや……普通に視線が気持ち悪かったから……」
「辛辣!」
幸いにもウルウはすぐに離してくれましたけれど、まったくもう、癖になったらどうしてくれるんでしょうか。なんて言ったら冷たい目で見てもらえました。
あと多分、なんか手拭いで手をふいてたので、許してくれたからじゃなくて私の脂っこくなった髪の感触が嫌だったからではないかという気もします。
普通に恥ずかしいですね。
しかし納得いきません。
私だけでなくトルンペートもそういう目をしていたはずなんですけれど。
そのあたりトルンペートは要領がいいというかなんというか。ぐぬぬ。
まあ臭かろうが気持ち悪かろうが人は生きている限りご飯食べて眠って過ごさなければいけないわけで、多少の不便も乗り越えていかなければならないのです。
そんな今晩のご飯は
「こいつ、泳ぐの? 泳がないの?」
「水が凍ってないときは泳ぐわ。凍ると陸に出てくるのよ」
「たまに寝てる間に湖面が凍って閉じ込められるのもいますね」
「不器用な生き方してるなあ……」
お肉の方はと言うと独特の香りがあるので、まあ万人向けとは言えないかもしれません。
狭い幌の中にこの匂いが立ち込めると、さすがにちょっとむわっと感じます。
「フムン……ちょっと硬いって言うか、ぱさぱさする」
「あんまり脂身ないものね。ま、格別おいしいもんでもないわよ」
「精がつくとは言いますけれど、まあ野のものはたいていそう言いますよね」
「でも言うほど臭くはない、かな。ギョウジャニンニクのおかげかな」
「
むわっとするほど私たち三人のにおいがこもった幌の中で、
その湯気を透かして見ると、おや、おかしいですね。なんだかしっとりと汗ばんだウルウがやけにいろっぽく見えてきました。
いけませんね。これはいけませんよ。
「ふう……少し、暑くなってきたかも」
「ん、そうね……あんまり汗かいて、風邪ひいても困るし、少し前開いた方がいいわ」
「そう、かも……?」
「そうですね、いっそ上着は脱いじゃいましょうよ」
「そうね、そうしましょ」
おーっと。
いけません。これはいけませんよ。
そっと上着を脱がせてあげているトルンペートの横顔がやけになまめかしく見えてきました。
「ほら、リリオも脱いじゃいなさいよ」
「え、いやあ……私はいいですよ」
「なによ急に照れちゃって……かわいいじゃない」
「かわいい」
「やめてくださいよぉ」
幌の中は、その晩、とてもこもりました。
用語解説
・
オカラッコ。
北部の海などで見られるラッコの仲間が、内陸に取り残されてしまったものと見られているが、その進化の過程は判然としていない。
夏場は川や湖などで過ごし、魚介類や海藻などを食べ、水が凍り始める時期には陸に避難し、木の実や昆虫、小動物を獲物とする。
食生活が季節で大幅に変わるため、捕まえた時期によって味が大いに変わるという。
また塩湖に棲むものは水が凍らないため通年水中生活をし、通常のラッコ同様の生態をしているという。
・
カチグサ。ギョウジャニンニクの仲間。
強い香りを持ち、滋養がつくとされる。
北部や辺境では春先に大量に摘んで干し、通年利用される。
基本的には山菜の一種として野で摘むものだが、一部では栽培もしている。
またその強い香りから魔除けの効果があるとされ、実際に一部の害獣はこの香りを忌避するとされる。
・いけません
実際のところどうなのかは不明だが、どうしようもなくなったら相撲とかとればいいんじゃないですかね。
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