第六話 亡霊とこの気持ちの名
前回のあらすじ
伝説の冒険屋を次々に呆れさせる《
そして母親に甘えるリリオであった。
他人の寝息。
他人の気配。
他人の体温。
他人の重み。
以前の私であれば、これらの一つでも傍に感じられれば、とても落ち着いて過ごすことなどできなかったことだろう。
家賃ばかりが高いアパートでも、薄い壁の向こうに人の気配を感じて、なかなか寝入れなかったことを覚えている。
会社で寝袋に包まっていた時も、終電後にうごめく亡者たちの足音や、栄養剤の助けもむなしく沈み込んだ死者たちの寝息に、浅い眠りしか得られずに苦労したものだ。
ともすれば自分の鼓動さえも煩わしく感じられたあの頃、墓の下のような静けさが恋しかった。
その私がいま、大きいとはいえ、車の中に四人並んで眠るという事態に陥っても平然としていられるのは、なんだか不思議な気分だった。
もうパーティとしてそれなりに過ごして、一緒に寝てきたリリオとトルンペートだけでなく、稽古はつけてもらったけどそこまで関りがあるという訳でもない、リリオのお母さんという赤の他人の気配があっても落ち着けているというのは、私の人間的成長の証なのだろうか。
まあ、私とマテンステロさんを一番端同士にしてくれたのもあるんだろうけれど。
竜車の反対側で、リリオはマテンステロさんに甘えるようにして、毛布にくるまっている。
私にはお母さんというものがいたことがないのでよくわからないけれど、やはりその存在は、決して小さいものではないのだろう。
日頃、あんなにたくましく、笑顔でパーティを引っ張っていくリリオだけれど、それでもまだ十四歳の女の子だ。
トルンペートがいくらかお姉さんではあるけれど、彼女はリリオを立てる。リリオのことを支えてはくれるけれど、甘やかしてはくれない。
私は随分年かさだけれど、でも二人が頼りにできるほどの頼もしさなんてありはしない。甘やかすほどの度量もない。
この国では十四歳で成人らしいけれど、それで急に大人になれる訳じゃない。
二十六年生きてきた私だって、いまだに自分が大人なんだって意識はない。
甘えたい盛り、というやつなのだろうか。普段は少し、背伸びしていたのかもしれない、そう言う強張った部分が、マテンステロさんの前でははがれてしまうのかもしれない。
素が出た、というよりは、たくさんある顔のうちの、ひとつなのだろうけれど。
ひそひそとした話し声や、笑い声が漏れ出てくるのを聞いていると、微笑ましいような、少し寂しいような、そんな気持ちがする。
そんな私が横たわる《
というか、リリオと同じようにトルンペートも大概小さいので、抱き枕代わりにしている。
リリオは本当に小さくて、その癖柔らかい肌の下には密度の高い筋肉が詰まっていて、やけにぽかぽかと体温が高く、ゆっくり温めてくれる。
一方でトルンペートは少し背が高く、少し細身で、しなやかな筋肉に覆われているけれど、ちょっと骨ばっている。だからか、体温がちょっと低い。私もあまり体温が高くない方なので、触れあっていると、リリオとは違って、じんわりと体温が交わって馴染んでいくような、そんな落ち着きがある。
竜車の中は
石鹸と、お手製リンスの香り、それに、人の匂い。
鼻先にそれを感じながらうつらうつらとしていると、私の胸にうずまって生暖かい吐息を漏らしていたトルンペートがもぞもぞと顔を上げて、呟くように言った。
「あんた、変わったわね」
「そうかな」
「そうよ」
猫がそうするように、私の胸をふにふにと押しながら、トルンペートはおかしそうに笑った。
「会ったばかりの頃は、隣に座るのだって、お尻一つ分はあけなけりゃならなかったわ」
「そうだったね」
「人に触るのだって怖がって、前だったら、こうしてたら、きっとがちがちに固まって、どうしたらいいのかわからないって顔してたわ」
「そうかも」
そう、それは、いまもあまり変わらない。
いまも、知らない人は怖いよ。人込みは落ち着かないし、街中を歩くのは息苦しい。初めての人と話すのは、ひどく疲れる。
でも、馴染みの人の隣は心地よい。人のいない景色は物悲しく、一人の部屋はうすら寒い。下らないことを話していると、心が落ち着く。
けれど、リリオとトルンペートは別だった。
特別だった。
特別に、なっていった。
二人は私を受け入れてくれた。
この世界では異物でしかない、生前の世界でだって何かとつながることのできなかった私を、受け入れて、繋ぎとめて、そして放してくれなかった。
はじめのうち、私はリリオのことを、ただの
私は彼女の旅を程よいところで見限り、そして次の旅へと関心を移すだろう、そう思っていた。
けれど気づけば私は舞台に飛び上がり、そしてリリオに手を取られ、トルンペートに絡めとられ、もう客席は第四壁の向こうへと隠れてしまった。
独りで生きて、独りで死ぬのだと思っていた。
でも、いまではもう、独りではどうしたらよいのかわからないでいる自分がいる。
「私は、君たちに依存してるんだと思うよ」
「依存?」
「すっかり頼り切って生きてるってこと。君たちがいないとだめってことかな」
「ふうん。……ふうん」
「なあに?」
「それって、好きってことかしら?」
見下ろせば、
「どうかな」
「わからないの?」
「なんていうのかな」
「うん」
「そういう、のじゃないと思う」
「そういうのって?」
「なんかこう、きれいな感じのじゃ、ないかなって」
「きれい?」
「うん。もっと、こう……私のは、自分勝手っていうか」
「ふうん?」
「リリオがね、どこに行こう、あれをしようって、私のことを引っ張っていってくれると、すごく、楽なんだ」
「楽?」
「自分で何か決めなくていいって、私が何かしなくても、手を引いてくれるのって、すごく、楽なんだ。ついていっていいんだって、そう思えるのは、信じる努力をしなくてもいいって言うのは、すごく、楽なんだ」
「ふうん」
「トルンペートもね」
「あたし?」
「うん。だめになりそう」
「なによ、それ」
「ご飯美味しいし、お掃除してくれるし、なんだかんだ付き合いいいし」
「いいじゃない」
「なんか、甘やかされてだめ人間になりそう」
「いやなの?」
「いやじゃないから、困る」
リリオから離れたくない。
トルンペートから離れたくない。
放されたくない。手放さないで欲しい。
ずっとそばにいて欲しい。縛り付けてしまいたくなる。
マテンステロさんが現れて、リリオがそっちに甘えるようになって、本当は少し、嫌な気持ちがした。
死んだと思っていたお母さんと再会できて、よかったねって、そう言ってあげなきゃいけないのに、私は素直にそんな気持ちにはなれなかった。
私が。
私の。
私に。
なんて言えばいいのかわからないくらい、ぐちゃぐちゃになった気持ちを、私はどうしたらよいのかわからなくて、きれいに折りたたむこともできないまま、本当はいまも抱え込んでいる。
もしゃもしゃと適当にこねくりこんで、少しずつ端の方を千切っては散らして、均していくしかできない。
私がうまく言葉にできないものを、ぽつりぽつりと告げていくと、トルンペートは少し笑ったようだった。
「誰かを好きになるって、あんたが思ってるほど、きれいなもんじゃないと思うわよ」
「そう、なのかな。でも、うん」
「物語の中ではそうかもしれないけど、人間だもの」
「うん」
「自分の胸の中にあるものなんだから、きれいなものばかりじゃないわ」
トルンペートの薄い胸の中には、どんな色が詰まっているのだろう。
彼女がうずまる私の胸の中は、何色なんだろう。
「あたしだって」
「うん」
「リリオには自由に旅してほしいって思うけど、でも、時々、独り占めにしたくなるわ」
「ほんとに?」
「ほんとに。あたし、本当に子どものころから、リリオと一緒なのよ。あの子の面倒見て、後始末して、名前だって付けてもらったし、秘密の宝物だって分けてもらえたわ。いまだって、何かあったら一番に頼ってもらえるって、そう言う自負があるわ」
「うん」
「最近あんたのせいでちょっと怪しいけど」
「そう、かな」
「そうなのよ。だから、まあ、たまに、あたしのなのよって、思うわよ」
「うん」
「うそ。本当は結構ちょくちょく思ってるわ」
「うん」
「それで、うん、そうよ。あんたからリリオを取り上げたい時もあるんだけど」
「うん」
「あんたを独り占めしたい時もあるわ」
「うん?」
「ええ」
「私を?」
「ええ。なんかリリオの方ばっかり構ってる時とか」
「そんなつもりはないんだけど」
「あたしがそう感じてるのよ」
「なんかごめん」
「あとは、ほら、よそでご飯食べてるとき」
「え、なんで?」
「なんか、無防備に美味しそうな顔するから、あたしの方が美味しいの作ってるじゃないって」
「あー、うん?」
「餌付けしてんだから他所に浮気するんじゃないわよって」
「えー……なんか、ごめん?」
「気難しい猫が、自分以外に隙見せた時みたいな、そんな感じ」
「わかるような、わかんないような」
「あとおっぱい」
「なんて?」
「おっぱいあるじゃない」
「うん。右と左に」
「んふ」
「並んで、あるね」
「なんでちょっと笑わせようとするのよ?」
「そういうつもりじゃないんだけど」
「その、おっぱいよね」
「そのっていうか、いままさに触られてるんだけど」
「リリオと二人で分けてると、やっぱり独り占めしたくなるのよ」
「なに、なんなの? 私の胸を二人で分けてるの?」
「こう、あんたをはさんで寝るじゃない」
「うん」
「それで、右パイと左パイを」
「右パイと左パイ」
「それぞれ所有権を主張するのよ」
「私の固有の領土なんだけど」
「あんたたまにこう、左を下にして寝ることあるんだけど、逆って滅多にないのよ」
「待って待って待って、私それ知らない」
「いまも左向いてあたしのこと抱いてるじゃない」
「あー、うん?」
「だから左側人気があるのよ。そういうときやっぱり、独占したくなるわよね、おっぱい」
「だから私のなんだけど」
「まあ、結局好きって言うのは、こんな感じで、そんなにきれいなもんじゃないわよ」
「そう、そうなのかなあ」
「あたしが信じられない?」
「喩えがおっぱいじゃなあ……」
「おっぱいは大事なのよ」
「そうなんだ……そうなんだ?」
「そうなのよ」
「そうなんだ……」
「そうなのよ」
「あー……私も、そうなのかな。そうなのかも」
「そう?」
「朝起きた時、布団にトルンペートがいないとなんか、もやもやする」
「なにそれ」
「一人だけ早起きして、支度とかしてると、なんかこう、なる」
「なるって、何がよ」
「私より支度の方が大事なんだ、みたいな」
「なにそれ可愛い」
「言ってて恥ずかしくなってきた」
「いいわよ。そういうのはもっと言って」
「やだ。子供みたいだ」
「おっきな子供みたいなもんじゃない」
「もう」
眠くなってきたせいか、なんだか言わないでもいいことを言ってしまっている気がする。
私はトルンペートの頭をかき抱いて黙らせて、さっさと眠りについてしまうことにした。
腕の中の頭は、小さめで、きれいに丸く、そして鼻先が小生意気に尖っていた。
「うん」
いままさに私はトルンペートを独り占めしているのだと思うと、何となく、わからないでもない気持ちだった。
「私は、そう、好きなのかもしれない」
なんだか、胸のつかえがとれたような気がした。
用語解説
・おっぱいは大事
単なる脂肪のふくらみに過ぎないのだと言われようとも、運動するとき邪魔にしかならないと言われようとも、それでも、おっぱいは大事なのだった。
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